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荒れ果てた家の中で、男がシチューを作っている。娘が食べた最後の食事だ。
ぼろぼろになった娘は、物言わぬ灰となり果てて、家に戻ってきた。
連れてきたのは愛する妻だ。
彼女が抱えた骨壺に、娘はひとすくいの灰になって入っていた。
「まにあわなかった……」
崩れ落ちる彼女に、男は泣いた。
妻の研究施設で火事が起こり、そのとき、たまたま施設にいた娘も巻き込まれたのだ。何重にもわたる検閲を受けて、何とか家に帰ってきてくれた娘の骨を……男は『妻』から奪い取った。
「あなた?」
「俺が何も知らないと思ったか」
地獄の底から笑うような声が響く。彼が突きつけたのは、動画だった。
シャンパンを模したドリンクを飲んで、母親に向けて笑う娘。
その娘が悲鳴を上げて崩れ落ち、連れ去られていく。
やがて娘の身体が縛り付けられた。周りを取り囲んだ人間が、彼女の身体に何かを突き立てる。
そして妻が現れた。数分前まで、母親の顔をしていた彼女が。
『主任、せめて鎮痛薬を』
『もう変化が始まっているわ。早くして。データを取るのが先よ』
『ですが』
『いいのよ……』
やがて衣服が取り除かれ、カメラの映像はそこで終わった。
終わってしまった。
「あなた、これは」
「最初は松蔵っていう小僧のためにつけたんだ。小型カメラと盗聴器だ。守子に手を出すなら容赦しないつもりだった。警戒されないように『破壊』された瞬間に、映像を俺の手元に送るというものにした」
「なんでそんなものを」
「決まっているだろう、守子を守るためだ。お前の部下に相談したら、すぐに用意してくれた。主任の子供だから、何かの間違いで誘拐事件にでもあったら大変だって」
父親は笑っていた。ありったけの勇気を込めて。
「渡しなさい」
「もう無理だ」
「どういう意味よ」
「この映像は松蔵に渡した」
「……は?」
「彼ならきっと、美しい物語として終えてくれる」
男が立っていたキッチンから、轟音が響き渡る。部屋中が炎につつまれた。
夫へ何を話そうか考えていた妻の周りを、炎が飲み込んだ。
「安心してくれ、マンションの皆さんには逃げてもらっている。火災訓練という触れ込みで。聞かせてくれないか?」
「ちょっと、あなた……」
「お前は世界のためだったのかもしれない。あるいは自分のためだったかもしれない。事情はあっただろう、裏もあっただろう、事実があっただろう。だけど俺には何の関係もない。お前が用意した飲み物が、お前が用意した部下たちが……何をしたんだ、守子に?」
真っ白な唇で、さつきは呟いた。
「本当のお母さんになれると思ったの」
「なぜ」
「痛みから、怖さから、救い出したら……」
「だからって、どうして与える側になった」
「それは」
さつきは、夫を睨みつけた。愛する彼を、ただ、恨めしく。
「あなたが働かないからでしょう!? 研究職がどれほど大変だと思っているのよ、愛想も愛情もない『連れ子』を育てるのに、私は『小娘の分際で失礼いたします』なんて年上の男におべっか使わなきゃ研究費もやってられないのに!!」
「あははは! お前、そう思ってたのか」
「そうよ! こうしちゃ、いられないわ!」
豪快に水を被った彼女が、貴重品を手に家を飛び出す用意をする。
「あんたとなんか、死んでやるもんか!」
ああ。
どうして。本当に助けが必要な人は『誰もが気持ちよく』助けたくなるような姿をしていないのか。
ひとり飛び出していく妻の背中を見送って、夫は微笑んだ。
完成した。
これで彼女は、研究所の事故で子供を失い、錯乱した夫に責め立てられて無理心中に巻き込まれかけ、それでもなお立ち上がる『孤高の天才女科学者』だ。
たとえその実態が、義理の娘に試験薬を使い。
夫の口座から金を盗み取って退職に追いやり。
上層部に取り入るために枕営業を常とした人間だとして。
もう二度と分からない。この火事ですべての証拠は燃え尽きる。
上層部とはそういう取引にした。彼女は素晴らしい宣伝役で、いなくてはならない逸材だから。
恋して愛しただけの家族など、彼女には重荷にしかならない。
妻は、世界の誰からも助けてもらえる『弱者』になれただろうか。
そして娘の生涯は、義理の母に殺された哀れな『弱者』ではなく、美しい物語の中で生き続ける『ヒーロー』になれただろうか。
自分は妻との生活に疲れ果て、無理心中を迫った悲しい夫になれただろうか。
笑う娘の笑顔が、男の脳裏をよぎる。
燃え盛る炎の中で、彼は笑顔のまま、目を閉じた。
おわり
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