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 本当に助けが必要な弱者は、助けたくなるような姿をしていない。    アカマキというあだ名を持つ友人が、世界の全てを悟ったような口調で告げた言葉。 それは、今の工藤守子に、とてもちょうどよかった。  右手が痛い。頭が痛い。喉がいたい。身体のどこもかしこも痛い。  彼女は痛みに喘ぎながら、何とか身体を持ち上げる。  彼女は一枚の布もまとっていない。  しかし、その肌は大きく膨らみ、まるでたっぷりの白い布を使ったドレスのように、ひらりひらりと翻る。  彼女の身体が痛むのは、骨のせいだった。  皮膚の下から延々と突き出し続ける細かな骨の突起が、永久に彼女の身体を傷つけていく。  皮膚が骨に引き延ばされ、彼女の身体に肌のドレスを作り上げていく。   (……昨日はお母さんが久しぶりに帰ってきて、お父さんがシチューを作って……私はサラダを作って、家庭科で習ったドレッシングを披露して、それでアカマキの漫画の話をして……)  幸せな昨夜の思い出から、どうして自分がこんな姿になったのか。  守子は分かっているから、思い出そうとした。   (お母さんが、私に飲ませた。お母さんが、私にくれた……)  ひさしぶりに守子は母の仕事場を訪れていた。いつも研究に忙しい母だが、時々、守子を関係者として施設に併設された従業員用のカフェに連れてきてくれる。  それが不器用な、世間的に言えば『父親』のような役目を家庭で果たす母にとって、最大の愛情表現。  傍にいて、と言うよりも、守子が出かけていく方が気が楽だった。  テーブルにはケーキ。本当はコーヒーがほしかったけれど、母が『特別ソーダあるわよ』と嬉しそうに言うから、ついつい、守子は頼んでしまった。    お待たせいたしました。    うやうやしく差し出されたのは、ピンク色の可愛いドリンク。シャンパンをモチーフにした小瓶に入っている。   「ええっ、。なにこれ? これが特別ソーダなの?」 「そうなのよ。素敵でしょ。あなたも来年から大学生だし、お祝いには気が早いけど……」    照れ臭そうに笑ったさつき……いいや。  が、私を本当の子供だと認めてくれた気がした。  とうとう守子は、嬉しくてたまらなくなった。今なら彼女を『お母さん』と呼ぶ勇気が持てる気がした。決意と共にソーダを飲み干す。  甘酸っぱくて、さわやかで、なんだか大人になれた気持ちがした。  本当のお母さんの記憶が強すぎて、どうしても素直になれなかった自分を、大切にしてくれた『さつき』さん。   「っ、あのね。さつきさん。ううん、おか……」    そして『ごめんね』と呟いた母。いいよ、と答えようとした守子。  それからだ。  記憶は、そこで、途切れている。   (私が……わたしが……)  いったい何をしたの?    守子は問いかけようとしたが、言葉にならない。骨の棘が彼女を貫き、切り裂いていく。  本来ならば、彼女が自由に歩き、笑い、飲み、食べ、泣き、怒り、驚く。さまざまなことを成し遂げるための骨格が、彼女に牙をむく。    守子は考えた。母親がいったい自分に何をしたのかと。  でも、考えるたびに、答えが目の前にあることを突きつけられた。    透明なガラス。守子が縛り付けられた頑丈な台。  足元で、ぶくぶくとあぶくをたてる、異臭のする液体。  四角い箱の頂点で、まるでこの世に守子を産みたもうた神様のように見下ろすのは、間違いなく守子の母親だった。  白衣を着たその姿を、守子はいつも『働く素敵なお母さん』の象徴のように見上げていたのに。   (おかあさん……)  守子は囁いた。声なき声で、必死に。答えが返るはずもないと知っていた。  そこで代わりに、守子は思い出した。友人のアカマキが言っていた物語だ。   「こうして、化け物となった娘は、次の世界で生きていくことができた。次の世界には娘と同じ姿になった子供たちがたくさんいて、その中には娘の恋人もいた。家族は、親は、自分たちが飲めば助かるはずの薬をすべて、子供たちに託したんだ」  化け物の姿になって泣きじゃくる物語の中の娘は、同じ化け物たちと一緒に次代を産み、そしていつしか世界は化け物ではなく……生き物でいっぱいになった。  それがアカマキが語った、守子にとってはなんだか胡散臭い漫画のストーリーだった。  午後の日差し。校庭からはサッカー部の声。吹奏楽部が奏でる和音の一歩手前の音色。  スマホのショート動画を見るのも飽きて、守子はアカマキを見上げる。彼の首にかかった大きなヘッドホンが眩しい。ガムテープでヘッドをぐるぐる巻きにされたヘッドホンは、アカマキの信念の象徴に見えた。  目元を隠すように延ばした前髪は、彼が本当に見たいものだけを見るためにつけた、黄金の兜のようだった。  感想を待つ彼の眼を覗き込みながら、守子は言う。 「でも。もしもできることなら、その子は『本当の姿』で恋をしたかったんじゃない?」  確かに、と言わんばかりにアカマキが頷く。 「できることならね。でも、できなかった」 「じゃあそれは、本当の恋だったのかな」  本当の恋というものを守子はしらない。だけど確信があった。  アカマキは守子の気持ちに気が付いたように、ふんふん、と軽く頷く。 「吊り橋効果みたいな?」 「そう。感動的にも生き延びた、だから選択肢として『恋』をしていたって、自分で思い込んで、それで……」 「なるほど。彼女は勇気が欲しかったんだ。恋が続くと思えば、すくなくとも化け物の姿でも生きていける」  すぐさま、アカマキが指先をノートパソコンのキーボードに躍らせた。  彼の姿を見るたびに、守子は羨ましく感じた。スマホのフリック入力はアカマキに勝つ自信があるけれど、ノーミスで、しかも手元を見ずに入力するなんて。  それは、アカマキが積み重ねた時間の象徴に見える。  自分はどうかなあ、なんて、守子は考えた。   「ねえ。アカマキはさ……もしも化け物になったとしても、恋をしたい?」  この男は、どんな答えを出すんだろう。  見守る守子の前で、アカマキが首をかしげる。 「守子さんの前提が違う。化け物になんて、なりたくない」 「なにそれ」  思わず守子が顔をしかめると、アカマキは一切悪びれずに笑って言った。   「物語だから美しいんだ。化け物に成るという事は。少なくとも、今のこの世界で化け物に成るということは、誰からも救われないから、ただひたすらに強くなるしかない弱者と成るに等しい。誰かに助けてと叫べることが、この世界では強者なんだから」  なるほど。確かに、物語だから、美しい。  喉を引き裂き、脳を突き刺す頭蓋骨を感じながら、守子は思う。    そうか。物語か。   「でも。そうだな。俺がもしも化け物になるのなら、パニック映画の主役が良いな」  パニック映画。   「そう。主役なんだよ、化け物が。そして暴れ散らかして、皆が『ああ怖かった』と言う一行の間に、何百人という関係者が闇に葬られるんだ。気が付いたらゾッとする系ってやつ?」  いいね。わるくない。   「絶対にやってるあいだは楽しくないけれど、その姿をどこかの誰かが映画に仕立てて、世界中のマニアに何年も愛されたら面白いと思う。思いたい」 「じゃあ、恋は?」 「……興味はあるけど」 「けど?」 「恋ってするんじゃなくて、落ちるものだって、信じてるんだよ」  思わせぶりにアカマキが守子を見つめた。  ちょっとときめいた自分が、守子は悔しかった。  そのときめきが、夜には現実になった。お母さんとカフェにいくことになったから、返事はできなかったのだけど。  ── 言っておくけど、俺はお前が好きだよ。恋してる。  バカみたいなスタンプ合戦の最後に、ぽんっ、と投げつけられた愛。返事をしたかったのに、スマホは手元にない。  彼の顔が、全身を貫く骨の痛みに消えていく。 「……ばーか!」  私もそうだよ、アカマキ。    守子はありったけの力で、笑った。
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