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*** 「──で、寝ても覚めても戻らなかったと」 「居眠っても怒られても戻らなかったな」 「授業はちゃんと受けなよ」  呆れたように言ったのち綾瀬は僕の前に立ったまま腕を組む。   それから少しの間、綾瀬は何も言わずじっと虚空を見つめていたが、ふと「そうだ」と呟いて腕を解く。 「今週末って空いてる?」  綾瀬の質問に僕は答えようとした。しかしそれを待たずして彼女は次の言葉を紡ぐ。 「デートをしましょう」 「デ」  最後まで言えなかった僕に、綾瀬は小さく頷いた。  僕は思わず辺りを見回す。放課後すぐに美術室に来たので僕と綾瀬以外まだ誰も来ていなかった。いや別に誰かに聞かれて困る話じゃないんだけど。 「だから、それを出すのはもう少しだけ待ってほしい」  綾瀬は僕の手元に目をやった。僕は指でまた少し触れる。  そこには一枚のプリントがあった。A5サイズほどの紙を裏返しに置いている。見られて嬉しいものじゃない。  退部届だった。今日顧問に提出する予定のものだ。  色がわからなくなってからもうすぐ一週間が経つがまるで戻る気配がない。  今後いつになったら戻るのかもわからず、病院で診てもらっても『精神的なものですね』という回答しか得られなかった。  綾瀬にこの目のことを知られたくなくて、この一週間はいつも通り美術部に通ってみたが結局何もできないことがわかっただけだ。  そして何より、つまらなかった。  自分の描きかけの作品も、彼女の作品も、他の部員の作品も全部がモノクロになって心が動かなかった。心が動かなくて寂しかった。  こんな場所にはいたくない、と思った。 「せっかく野球部に入って甲子園を目指そうって決めたとこなのに」 「絶対向いてないからやめたほうがいいよ」 「始める前からそんなこと言うもんじゃない」 「美術部のほうが似合うって意味よ。そもそもこうなった原因は初告白された衝撃でしょ? じゃあ今度は初デートすれば治るかもしれない」 「どういう理論だよ」 「やれることはやってみたらいいじゃない」  白と黒の色で塗られた綾瀬が右手を伸ばす。  そのまま僕の手に重ねた。初めて触れた彼女の感触に僕は動けなくなる。  僕の手ごと退部届を押さえたまま、彼女は僕の目を見つめた。 「それとも私とデートしたくないの?」    綾瀬は挑発的な笑みを浮かべる。  それは僕が反論できないことをわかっている表情で、モノクロでも悔しいくらいに魅力的だった。
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