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【5】赤面と汗
奥の庭に導かれた。
縁先の土の上にムシロが敷かれていた。
それが俺の席であった。
俺と向かい合わせに、江奈古が控えていた。
後ろ手に戒められて、じかに土の上に座っていた。
俺の足音を聞きつけて、江奈古が首を上げる。
そして、戒めを解けば飛びかかる犬のように俺を睨んで目を離さなかった。
こしゃくな奴め、と俺は思った。
(耳を斬り落とされた俺が女を憎むなら訳は分かるが、女が俺を憎むとは訳が分からぬ)
こう考えて俺はふと気が付いたが、耳の痛みが取れてからは、この女を思い出したことも無かった。
(考えてみると不思議だな。
俺のような癇癪持ちが、俺の耳を切り落とした女を呪わないとは奇妙なことだ。
俺は誰かに耳を斬り落とされたことは考えても、斬り落としたのがこの女だと考えたことは無かった。
あべこべに、女の奴めが俺を仇のように憎みきっているということが腑に落ちない)
俺の呪いの一念は、全て魔神を刻むことに込められているから、こしゃくな女一匹を考える暇が無かったのだろう。
俺は十五の歳に、仲間の一人に屋根から突き落とされ、手と足の骨を折ったことがある。
この仲間は、些細なことで俺に恨みを持っていたのだ。
俺は骨を折ったので三ヵ月ほど大工の仕事は出来なかったが、親方は俺がたった一日といえども仕事を休むことを許さなかった。
俺は片手と片足で、欄間の彫り物を刻まなければならなかった。
骨折の怪我というものは、夜も眠ることが出来ないほど痛むものだ。
俺は泣き泣きノミをふるっていたが、そのうち、泣き泣き眠ることが出来ない長夜の苦しみよりも、泣き泣き仕事をする日中の方が凌ぎやすいことが分かってきた。
折からの満月を幸いに、夜中に起きてノミをふるい、痛さに耐えかねて悶え泣いたこともあったし、手を滑らせて腿にノミを突き立ててしまったこともあったが、苦しみを超えたものは仕事だけだということを、あの時ほどまざまざと思い知らされたことはない。
片手片足で彫った欄間だが、両手両足が使えるようになってから眺め直して、特に手を入れる必要も無かった。
その時のことが身に染みているから、片耳を斬り落とされた痛みぐらいは、仕事の励みになっただけだ。
今に思い知らせてやるぞと考えた。
そして、嫌が上にも恐ろしい魔人の姿を思い巡らしてゾクゾクしたが、思い知らせてやるのはこの女だと考えたことは無かった。
(俺が女を呪わないのは、訳が分かるふしもあるような気がするが、女が俺を仇のように憎むのは訳が分からない。
ひょっとすると、長者があんなことを言ったから、俺が女を欲しがっていると思って呪っているのかもしれないな)
こう考えると、訳が分かってきたように思われた。
すると、ムラムラと怒りが込み上げた。
(馬鹿な女め。
貴様欲しさに仕事をする俺と思うか。
連れて帰れと言われても、肩に落ちた毛虫のように手で払って捨てて行くだけのことだ)
そう考えた末、俺の心は落ち着いた。
「耳男を連れて参りました」
アナマロが室内に向かって大声で叫ぶ。
すると簾の向こうに気配があって、着席した長者が言った。
「アナマロはおるか」
「これにおります」
「耳男に沙汰を申し伝えよ」
「かしこまりました」
アナマロは俺を睨みつけて、次のように申し渡した。
「当家の女奴隷が耳男の耳を削ぎ落としたと聞こえては、飛騨の匠一同にも飛騨の国人一同にも申し訳が立たない。
よって江奈古を死罪に処するが、耳男が仇をうけた当人だから、耳男の斧で首を打たせる。
耳男、打て」
俺はこれを聞いて、江奈古が俺を仇のように睨むのは道理だと思った。
この疑いが晴れてしまえば、後は気にかかるものもない。
俺は言ってやった。
「御親切は痛み入るが、それには及びますまい」
「打てぬか」
俺はスックと立ってみせた。
斧を取ってズカズカと進み、江奈古の直前で一睨み、凄みをきかせて睨みつけてやった。
そうして江奈古の後へ回ると、斧を当てて縄をブツブツと切った。
そして、元の座へさっさと戻った。
俺はわざと何も言わなかった。
アナマロが笑って言った。
「江奈古の死に首よりも、生き首が欲しいか」
これを聞くと、俺の顔に血が上った。
「たわけたことを。
虫ケラ同然のハタ織女に、飛騨の耳男はてんで鼻もひっかけやしない。
東国の森に棲む虫ケラに耳を噛まれただけだと思えば、腹も立たない道理じゃないか。
虫ケラの死に首も生き首も欲しくはない!」
こうキッパリと言ってやったが、顔が真っ赤に染まり汗が一時に溢れ出たのは、俺の心を裏切るものであった。
顔が赤く染まって汗が溢れ出たのは、この女の生き首が欲しい下心のせいでは無かった。
俺を憎む訳があるとは思われぬのに、女が俺を仇のように睨んでいるから、さては俺が女を我が物にしたい下心でもあると見て呪っているのだなと考えた。
馬鹿な奴め。
貴様を連れて帰れと言われても、肩に落ちた毛虫のように払い落として帰るだけだと考えていた。
いたのだが。
有りもせぬ下心を疑られては迷惑だとかねて甚だ気にかけていたことを、思いもよらずアナマロの口から聞いたから、俺は虚をつかれて、狼狽えてしまったのだ。
一度狼狽えてしまうと、それを恥じたり気に病んだりして、俺の顔は益々熱く燃え、汗は滝の如くに湧き流れるのはいつもの例であった。
(困ったことだ。
なんて残念なことだ。
こんなに汗をびっしょりかいて慌ててしまえば、まるで俺の下心が確かにそうだと白状しているように思われてしまうばかりだ)
こう思うと、俺は益々狼狽えた。
額から汗の玉がポタポタと滴り落ちて、いつやむ気配も無くなってしまった。
俺は観念して目を閉じた。
俺にとってこの赤面と汗は、まともに抵抗し難い大敵であった。
観念の目を閉じて務めて無心にふける以外に、汗の雨だれを食い止める手段が無かった。
その時、皇子の声が聞こえた。
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