8人が本棚に入れています
本棚に追加
【10】神の化身
どうやら疱瘡神が通り過ぎた。
この村の五分の一が死んでいた。
長者の邸には多数の人々が住んでいるのに、一人も病人が出なかったから、俺の造ったバケモノが一躍村人に信心された。
長者が真っ先に打ちこんだ。
「耳男があまたの蛇を生き裂きにして逆さ吊りにかけ、生き血を浴びながら呪いをこめて造ったバケモノだから、その怖しさに疱瘡神も近づくことができないのだな」
と皇子の言葉を受け売りして吹聴した。
バケモノは山上の長者の邸の門前から運び降ろされて、山の下の池の淵の三つ又に、にわか造りの祠の中に鎮座した。
遠い村から拝みに来る人も少なくなかった。
そして俺はたちまち名人ともてはやされたが、その上大評判を取ったのは夜長皇子であった。
俺の手になるバケモノが間に合って、長者の一家を護ったのも皇子の力によるというのだ。
尊い神が皇子の生き身に宿っておられる。
尊い神の化身であるという評判がたちまち村々へ広がった。
山下の祠へ俺のバケモノを拝みに来た人々のうちには、山上の長者の邸の門前へ来て、額を地につけて拝んで帰る者もあったし、門前へお供え物を置いて行く者もあった。
皇子は、お供え物のカブや菜っ葉を俺に示して言った。
「これはお前が受けた物だよ。
美味しく煮てお食べ」
皇子の顔はニコニコと輝いていた。
俺は皇子がからかいに来たと見て、ムッとして言い返した。
「天下の名題の仏を造った飛騨の匠は沢山おりますが、お供え物を頂いた話は聞きません。
生き神様のお供え物に決まっているのだから、美味しく煮ておあがり下さい」
皇子の笑顔は俺の言葉に取り合わなかった。
皇子は言った。
「耳男よ。
お前が造ったバケモノは、本当に疱瘡神を睨み返してくれたんだよ。
私は毎日高楼の上からそれを見ていたんだ」
俺は呆れて皇子の笑顔を見つめた。
しかし、皇子の心は、到底量りがたいものであった。
皇子は更に言った。
「耳男よ。
お前が楼に上がって私と同じ物を見ても、お前のバケモノが疱瘡神を睨み返してくれるのを見ることが出来なかっただろうよ。
お前の小屋が燃えた時から、お前の目は見えなくなってしまったのだから。
そして、お前が今お造りの弥勒には、お爺さんやお婆さんの頭痛を和らげる力もないよ」
皇子は冴え冴えと俺を見つめていた。
そして、振り向いて立ち去った。
俺の手にカブと菜っ葉が残っていた。
俺は皇子の魔法にかけられて、虜になってしまったように思った。
怖しい皇子だと思った。
確かに人力を超えた皇子かも知れぬと思った。
だが、俺が今造っている弥勒には、爺さん婆さんの頭痛を和らげる力もないとは、どういうことだろう。
(あのバケモノには子供を泣かせる力もないが、弥勒には何かがある筈だ。
少なくとも俺という人間の魂がそっくり乗り移っているだろう)
俺は確信を持ってこう言えるように思ったが、俺の確信の根元から揺り動かして崩すものは、皇子の笑顔であった。
俺が見失ってしまったものが確かにどこかにあるようにも思われて、頼りなく、ふと、たまらなく切ない思いを感じるようになってしまった。
疱瘡神が通り過ぎて50日も経たぬうちに、今度は違った疫病が村を越え里を越えて渡ってきた。
夏がきて、暑い日盛りが続いていた。
再び人々は、日盛りに雨戸を下ろし、神仏に祈って暮らした。
しかし、疱瘡神が通った間、畑を耕していなかったので、今度も畑を耕さなければ食べる物が尽きてしまう。
そこで百姓は、戦きながら野良へ出てクワを振り上げ振り下ろしたが、朝は元気に出たのが、日盛りの畑でキリキリ舞いをしたあげく、暫く畑を這い回ってこと切れる者も少なくなかった。
山の下の三ツ又のバケモノの祠を拝みに来て、祠の前で死んでいた者もあった。
「尊い皇子の神よ。
悪病を払いたまえ」
長者の門前へ来て、こう祈る者もあった。
長者の邸も再び日盛りに雨戸を閉して、人々は息を殺して暮らしていた。
皇子だけが、雨戸を開け、時に楼上から山下の村を眺めて、死者を見るたびに邸内の全ての者に聞かせて歩いた。
俺の小屋へ来て、皇子が言った。
「耳男よ。
今日、私が何を見たと思う?」
皇子の目はいつもに増して輝きが深いようであった。
皇子が続ける。
「バケモノの祠に拝みに来て、祠の前でキリキリ舞いをして、祠に取りすがって死んだお婆さんを見たんだ」
俺は即座に言ってやった。
「あのバケモノの奴も、今度の疫病神は睨み返すことができませんでしたか」
皇子はそれに取り合わず、静かにこう命じた。
「耳男よ。
裏の山から蛇をとっておいで。
大きな袋にいっぱい」
俺は皇子に命じられては否応もない。
黙って意のままに動くことしか出来ないのだ。
その蛇で何をするつもりだろうという疑いも、皇子が立ち去ってからでないと俺の頭に浮かばなかった。
俺は裏の山に分け込んで、あまたの蛇をとった。
去年の今頃も、そのまた前の年の今頃も、俺はこの山で蛇をとったな、と懐かしんだが、その時俺はふと気が付いた。
去年の今頃も、そのまた前の年の今頃も、俺が蛇とりにこの山をうろついていたのは、皇子の笑顔に押されて怯む心を掻き立てようと悪戦苦闘しながらであった。
皇子の笑顔に押された時には、俺の造りかけのバケモノが腑抜けのように見えた。
ノミの跡の全てが無駄にしか見えなかった。
そして腑抜けのバケモノを、再びマトモに見直す勇気が湧くまでは、この山の蛇の生き血を飲み干しても足りないのではないかと怯え続けていたものだった。
その頃に比べると、今の俺は皇子の笑顔に押されるということがない。
いや、押されてはいるかも知れぬが、押し返さなければならぬという不安な戦いはない。
皇子の笑顔が押してくるままの力を、俺のノミが素直に表すことが出来ればよいという芸本来の、心を一事に集中して雑念を離れた我の境地、いわば三昧境に浸っているだけのことだ。
今の俺は素直な心に立っているから、今造りかけの弥勒にも我が身の拙さを嘆く思いは絶える間もないが、バケモノが腑抜けに見えたほど見るも無惨な嘆きはなかった。
バケモノを刻むノミの跡は、皇子の笑顔に押されては、全てが無駄なものにしか見えなかったものであった。
今の俺はともかく心に安らぎを得て、素直に芸と戦っているから、去年の俺も今年の俺も変わりがないように思っていたが、大層変わっているらしいな、ということをふと考えた。
そして今年の俺の方が、全てに於いて立ち勝っていると思った。
俺は大きな袋にいっぱい蛇を詰めて戻った。
その膨らみの大きさに皇子の目は無邪気に輝いた。
皇子は言った。
「袋を持って、楼の上へ来て」
俺は高楼へ登った。
皇子は下を指して言った。
「三ツ又の池のほとりにバケモノの祠があるだろう。
祠に縋りついて死んでいる人の姿が見えるだろう。
お婆さんだよ。
あそこまで辿り着いてちょっと拝んでいたと思うと、にわかに立ち上がってキリキリ舞いをはじめたんだ。
それからヨタヨタ這い回って、やっと祠に手をかけたと思うと動かなくなってしまった」
皇子の目は、そこに注がれて動かなかった。
更に皇子は、下界の諸方に目を転じて飽かず眺め耽った。
そして、呟いた。
最初のコメントを投稿しよう!