【11】祈り

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【11】祈り

「野良に出て働く人の姿が多いな。 疱瘡の時には野良に出ている人の姿が見られなかったものだったのに。 バケモノの祠へ拝みに来て死ぬ人もあるのに、野良の人々は無事なんだな」 俺は小屋に篭って仕事にふけっているだけだから、邸内の人々とも殆ど交渉がなかったし、まして邸外とは交渉がなかった。 だから村里を襲っている疫病の怖ろしい噂を時たま聞くことがあっても、俺にとっては別天地の出来事で、身に染みる思いに打たれたこともなかった。 俺のバケモノが魔除の神様に祭り上げられ、俺が名人ともてはやされていると聞いても、それすらも別天地の出来事であった。 俺は初めて高楼から村を眺めた。 それは裏の山から村を見下ろす風景の距離を縮めただけのものだが、バケモノの祠に縋りついて死んでいる人の姿を見ると、それが我が身に関わりの無い空々しい眺めながらも、人里の哀れさが目に染みもした。 あんなバケモノが魔除の役に立たないのは分かり切っているのに、その祠に縋りついて死ぬ人があるとは罪な話だ。 いっそ焼き払ってしまえばいいのに、と俺は思った。 俺が罪を犯しているような思いにかられもした。 皇子は下界の眺めを堪能して、振り向いた。 そして俺に命じた。 「袋の中の蛇を一匹ずつ生き裂きにして血を搾って。 お前はその血を搾って、どうしたの?」 「俺はチョコに受けて飲みましたよ」 「十匹も、二十匹も?」 「一度にそう飲めませんが、飲みたくなければ、その辺へぶっかけるだけのことですよ」 「そして裂き殺した蛇を天井に吊るしたんだな」 「そうですよ」 「お前がしたと同じことをして。 生き血は私が飲む。 さあ早く」 皇子の命令に従う以外に手のない俺であった。 俺は生き血を受けるチョコや、蛇を天井へ吊るすための道具を運び上げて、袋の蛇を一匹ずつ裂いて生き血を搾り、順に天井へ吊るした。 俺はまさかと思っていたが、皇子はたじろぐ色もなく、ニッコリと無邪気に笑って、生き血を一息に飲み干した。 それを見るまでは、さほどのこととは思わなかったが、その時からはあまりの怖ろしさに、蛇を裂く馴れた手までが狂いがちであった。 俺も三年の間、数知れない蛇を裂いて生き血を飲み、死体を天井に逆さ吊りにしたが、匠の俺が自分ですることだから怖ろしいとも異様とも思わなかった。 だが皇子は、蛇の生き血を飲み、蛇体を高楼に逆さ吊りにして、何をするつもりなのだろう。 目的の善悪がどうあろうとも、高楼に昇り、躊躇う色もなくニッコリと蛇の生き血を飲み干す皇子は、あまりに無邪気で、怖ろしかった。 皇子は三匹目の生き血までは一息に飲み干した。 四匹目からは、屋根や床上へ撒き散らした。 俺が袋の中の蛇をみんな裂いて吊るし終わると、皇子は言った。 「もういっぺん山へ行って袋いっぱい蛇をとってきて。 陽のあるうちは何回も。 この天井いっぱい吊るすまでは、今日も、明日も、明後日も。 さあ早く」 もう一度、蛇をとりに行ってくると、その日はもう黄昏(たそが)れてしまった。 皇子の笑顔に、無念そうな(かげ)がさす。 吊された蛇と、吊るされていない空間とを、満ち足りたように、また無念げに、皇子の笑顔はしばし高楼の天井を見上げて動かなかった。 「明日は朝早くから出かけて。 何回もだよ。 そしてドッサリとってきて」 皇子は心残りげに、黄昏れの村を見下ろした。 そして、更に言った。 「ほら。 お婆さんの死体を片付けに、祠の前に人が集まっている。 あんなに、沢山の人が」 皇子の笑顔が輝きを増す。 「疱瘡の時は、いつもせいぜい二、三人の人がションボリ死体を運んでいたのに、今度は人々がまだ生き生きとしているな。 私の目に見える村の人々が、みんなキリキリ舞いをして死んで欲しいな。 その次には私の目に見えない人達も。 畑の人も、野の人も、山の人も、森の人も、家の中の人も、みんな死んで欲しいな」 俺は冷水を浴びせかけられたように、すくんで動けなくなってしまった。 皇子の声は透き通るように静かで無邪気であったから、尚のこと、この上もなく怖しいものに思われた。 皇子が蛇の生き血を飲み、蛇の死体を高楼に吊るしているのは、村の人々がみんな死ぬこと祈っているのだ。 俺は居たたままれず、一目散に逃げたいと思いながら、俺の足はすくんでいたし、心もすくんでいた。 俺は皇子が憎いとはついぞ思ったことがないが、この皇子が生きているのは怖ろしいということを、その時初めて考えた。 しらじら夜明けに、ちゃんと目が覚めた。 皇子の言いつけが身にしみて、ちょうどその時間に目が覚める程、俺の心は縛られていた。 俺は心の重さに耐え難かったが、袋を負うて明けきらぬ山へ分けこまずにはいられなかった。 そして山へ分けこむと、俺は蛇をとることに必死であった。 少しでも早く、少しでも多く、と焦っていた。 皇子の期待に添うてやりたい一念が、一途に俺を駆り立ててやまなかった。 大きな袋を負うて戻ると、皇子は高楼で待っていた。
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