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【12】青い空
それをみんな吊るし終えると、皇子の顔は輝いた。
「まだとても早いな。
ようやく野良へ人々が出て来たばかり。
今日は何回も、何回も、とってきて。
早く、出来るだけ精を出して」
俺は黙って空の袋を握ると、山へ急いだ。
俺は今朝からまだ一言も皇子と口を利かなかった。
皇子に向かって物を言う力が無かったからだ。
今に、高楼の天井いっぱいに蛇の死体がぶら下がるに違いないが、その時、どうなるのだろうと考えると、俺は苦しくてたまらなかった。
皇子がしていることは、俺が仕事部屋でしていたことの真似事に過ぎないようだが、俺は単純にそう思う訳にはいかなかった。
俺があんなことをしたのは、小さな余儀ない必要によってであったが、皇子がしていることは、人間が思いつくことではない。
たまたま俺の小屋を見せたから、それに似せているだけで、俺の小屋を見ていなければ、他の何かに似せて同じような怖ろしいことをやっている筈なのだ。
しかも、かほどのことも、皇子にとってはまだ序の口であろう。
皇子の生涯に、この先、なにを思いつき、なにを行うか、それはとても人間どもの思い量うることではない。
とても俺の手に負える皇子ではないし、俺のノミも到底皇子を刻むことは出来ないのだと、俺はしみじみと思い知らされずにはいられなかった。
(なるほど。
まさしく皇子の言われる通り、いま造っている弥勒なんぞは、ただのちっぽけな人間だな。
皇子は、この青空と同じぐらい大きいような気がするな)
余りに怖ろしいものを見てしまったと俺は思った。
こんな物を見ておいて、この先なにを支えに仕事を続けて行けるだろうかと、俺は嘆かずにいられなかった。
二度目の袋を背負って戻ると、皇子の頬も目も輝きに燃えて俺を迎えた。
皇子は俺にニッコリと笑いかけながら、小さく叫んだ。
「素晴らしい!」
皇子は指差して言った。
「ほら、あそこの野良に一人死んでいるだろう。
つい今しがただ。
クワを空高くかざしたと思うと、取り落としてキリキリ舞いを始めたんだ。
そしてあの人が動かなくなったと思うと、ほら、あそこの野良にも一人倒れているだろう。
あの人がキリキリ舞いを始めたんだよ。
そして、今しがたまで這って蠢いていたのに」
皇子の目はそこにじっと注がれていた。
まだ蠢きやしないかと、期待しているのかもしれない。
俺は皇子の言葉を聞いているうちに、汗がジットリと浮かんできた。
怖れとも悲しみともつかない、大きなものが込み上げて、俺はどうしてよいのか分からなくなってしまった。
俺の胸に塊がつかえて、ただハアハアと喘いだ。
その時、皇子の冴え渡る声が俺に呼び掛けた。
「耳男よ。ごらん!
あそこに、ほら!
キリキリ舞いをし始めた人がいる。
ほら、キリキリと舞っている。
お日様が眩しいように。
お日様に酔ったよう」
俺は欄干に駆け寄って、皇子の示す方を見た。
長者の邸のすぐ下の畑に、一人の農夫が両手を拡げて、空の下を泳ぐようにユラユラとよろめいていた。
カカシに足が生えて、左右にくの字を踏みながらユラユラと小さな円を踏み廻っているようだ。
そして、バッタリと倒れて這い始めた。
俺は目を閉じて、退いた。
顔も、胸も、背中も、汗でいっぱいだった。
皇子が村の人間を皆殺しにしてしまう
俺はそれを、今こそハッキリと確信した。
俺が高楼の天井いっぱいに蛇の死体を吊るし終えた時、この村の最後の一人が息をひきとるに違いない。
俺が天井を見上げると、風の吹き渡る高楼だから、何十本もの蛇の死体が調子を揃えて緩やかに揺れ、隙間から綺麗な青空が見えた。
閉め切った俺の小屋では、こんな風景を見ることは出来なかったが、ぶら下がった蛇の死体までがこんなに美しいということは、何ということだろうと俺は思った。
そして、こんなことは、人間世界のことでは無いと。
俺が逆さ吊りにした蛇の死体を俺の手が切り落とすか、ここから俺が逃げ去るか、どちらかひとつを選ぶより仕方が無いと俺は思った。
俺はノミを握り締めた。
そしていずれを選ぶべきかに、尚も迷った。
その時、皇子の声が聞こえた。
「とうとう動かなくなったよ。
なんてかわいいんだろう。
お日様が羨ましい。
日本中の野でも里でも町でも、こんな風に死ぬ人をみんな見ていらっしゃるんだな」
それを聞いているうちに、俺の心は変わった。
この皇子を殺さなければ、チャチな人間の世界は保たないのだと悟ったがために。
皇子は無心に野良を見つめていた。
新しいキリキリ舞いを探しているのかも知れなかった。
なんて美しく可憐な皇子だろうと、俺は思った。
そして、心が決まると、俺は不思議に躊躇わなかった。
寧ろ強い力が俺を押すように思われた。
俺は皇子に歩み寄ると、俺の左手を皇子の左の肩にかけ、抱きすくめて、右手のキリを胸に打ち込んだ。
俺の肩はハアハアと大きく波打っていたが、皇子は目を開けたまま、ニッコリ笑った。
「さよならの挨拶をして、それから殺して下さるものだよ。
私もさよならの挨拶をして、胸に突き刺して頂いたのに」
皇子のつぶらな瞳は、俺に絶えず微笑みかけていた。
俺は皇子の言う通りだと思った。
俺も挨拶がしたかったし、せめてお詫びの一言も叫んでから皇子を刺すつもりであったが、やはりのぼせて、何も言うことが出来ないうちに皇子を刺してしまったのだ。
今更、何を言えよう。
俺の目に不覚の涙が溢れる。
すると皇子は、俺の手を取り、ニッコリと笑ったまま囁いた。
「好きなものは、呪うか殺すか争うかしなければならないんだよ。
お前の弥勒が駄目なのもそのせいだし、お前のバケモノが素晴らしいのもそのためなんだよ。
いつも天井に蛇を吊るして、いま私を殺したように立派な仕事をして…」
皇子の目が笑って、閉じた。
そして俺は、俺の胸にキリを打ち込むと、皇子をしっかりと抱いたまま高楼から飛び降りた。
青い空。
穏やかに揺れる、高楼の天井から吊された蛇の引き裂かれた死体たち。
腕の中のまだ温かな皇子。
耳男の心は死に向かって尚、平穏に満ちていた。
~fin~
あとがき
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