【2】長者と皇子と耳と

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【2】長者と皇子と耳と

長者の邸へ着いた翌日、アナマロに導かれて奥の庭で、長者に会って挨拶をした。 御簾の奥から現れた長者は、丸々と太り、頬がたるんで、福の神のような格好の人であった。 かたわらに夜長皇子がいた。 長者の頭に白髪が生えそめた頃にようやく生まれた一粒種だから、一夜ごとにニ握りの黄金を百夜にかけて搾らせ、滴る(つゆ)を集めて産湯をつかわせたと言われていた。 その露が染みたために、皇子の身体は生まれながらに光輝き、黄金の香りがするとも。 確かに皇子は、黄金のように光輝き美しく、『黄金の香り』と言われるような何とも言えぬ(かぐわ)しい香りが漂っていた。 俺は、一心不乱に皇子を見つめなければならない、と思った。 なぜなら、親方が常に、弟子達にこう言い聞かせていたからだ。 「珍しい人や物に出会った時は目を放すな。 私の師匠がそう言っていた。 そして師匠はそのまた師匠にそう言われ、そのまた師匠のそのまた師匠の、またまた昔の大昔の大親の師匠の代から順くりにそう言われてきたのだぞ。 大蛇に足を噛まれても、目を放すな」 だから俺は夜長皇子を見つめた。 俺は小心なところがあるせいか、覚悟を決めてかからなければ人の顔を見つめることが出来なかった。 しかし、気後れをじっと押さえて、皇子を見つめているうちに、次第に心が平静になっていく満足感を感じた時、俺は真から親方の教訓の重大な意味が分かったような気がした。 のしかかるように見つめ伏せては駄目だ。 その人やその物とともに、ひと色の水のように透き通る如く見つめなければならないのだ。 俺は夜長皇子を見つめた。 皇子はまだ十三だった。 身体はか細いながら手足はすんなりと長く、すくすくと育っていたが、黄金の香りと共に子供の香りが立ち込めていた。 ぞくぞくと寒気がする程に美しく、威厳もあったが、恐ろしくは無かった。 俺はむしろ、張りつめた力が緩んだような気がした。 それは俺が、皇子の存在に『負けた』せいかもしれない。 俺は皇子を見つめていた筈だが、いつの間にか皇子の後ろに広々とそびえている乗鞍山(のりくりやま)の方が、強く瞳に沁みて残ってしまったと自覚していたからだ。 アナマロは俺を長者に引き合せて、 「これが耳男(みみお)でございます。 若いながらも師の骨法を全て会得し、更に独自の工夫も編み出した程の師匠まさりで、青笠や古釜と技を競って後れを取るとは思われぬと、師が口を極めて褒め称えた程の匠であります」 と意外にも殊勝なことを言った。 すると長者は頷いたが、 「派手な容貌ではないが二重で切れ長の目、端正ですっきりとした顔立ちをしておる。 美形であるな。 だが、その大きな耳は何とした。 耳男とは、その耳からきておるのか?」 と、俺の耳を一心に見つめたながら言った。 そして、「大耳は下へ垂れがちなものだが、この耳は上へ立ち、頭よりも高く伸びている。兎の耳のようだ」と感心したように続けた。 俺の頭に血が逆巻いた。 俺は普段は冷静で、表情も変えない方で、よく仏頂面をしていると言われるが、人々に耳のことを言われる時ほど逆上し、混乱することはない。 いかな勇気も決心も、この混乱を防ぐことが出来ないのだ。 全ての血が上体に上がり、たちまち汗が滴った。 それはいつものことではあるが、この日の汗は類の無いものだった。 額も、耳の周りも、首筋も、一時に汗が溢れて滝のように流れた。 長者はそれを不思議そうに眺めて、一言言った。 「急に馬のような顔色になり、その汗は何たることか」 すると、皇子が叫んだ。 「本当に馬の顔色そっくり! そんなに整った顔をしているくせに! 馬の顔色にそっくり!」 侍女たちが声を立てて笑う。 俺はもう熱湯の釜そのもののようであった。 溢れ立つ湯気も見えたし、顔も首も胸も背も、皮膚全体が汗の深い河であった。 けれども俺は皇子の顔だけは見つめなければならないし、目を離してはいけないと思った。 一心不乱にそう思い、それを行うために力を尽くした。 しかし、その努力は湧き立ち溢れる混乱とは分離して並行し、俺は処置に窮して立ちすくんだ。 長い時間が、そうして、どうすることも出来ない時間が過ぎた。 俺は突然、振り向いて走った。 他に適当な行動や落ち着いた言葉などを発するべきだと思いつきながら、もっとも欲しない、そして思いがけない行動を起こしてしまったのである。 俺は俺の部屋の前まで走っていった。 それから、門の外まで走って出た。 それから歩いたが、また、走った。 いたたまれなかったのだ。 俺は川の流れに沿って山の雑木林にわけ入り、滝の下で長い時間岩に腰かけていた。 昼が過ぎた。 腹が減った。 しかし、日が暮れかかるまでは長者の邸へ戻る力が起こらなかった。
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