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【3】嘲りと憎しみ
俺に五、六日遅れて青笠が着いた。
また五、六日遅れて古釜の代わりに倅の小釜が到着した。
それを見ると青笠は失笑して言った。
「馬耳の師匠だけかと思ったら、古釜もか。
この青笠に勝てぬと見たのは殊勝なことだが、身代わりの二人の小者が気の毒だ」
皇子が俺を馬に見立ててから、人々は俺を『馬耳』と呼ぶようになっていた。
俺は青笠の高慢が憎いと思ったが、黙っていた。
俺の肚は決まっていたからだ。
ここを死に場所と覚悟を決めて、一心不乱に仕事に精を打ち込むだけだ、と。
小釜は俺より七つ年上だった。
彼の父の古釜も病気と称して倅を代わりに差し向けたが、噂では仮病であったと言われていた。
使者のアナマロが一番遅くに彼を迎えに出かけたので、腹を立てたのだそうだ。
しかし小釜が、父に劣らぬ匠であるということは既に評判であったから、俺の場合のように意外な身代わりでは無かったのである。
小釜は腕に余程の覚えがあるのか、青笠の高慢を眉の毛一筋も動かすことなく聞き流していた。
そして、青笠にも、また俺にも、同じように丁重に挨拶をした。
ひどく落ち着いた奴だと思って薄気味悪かったが、その後だんだん見ていると、奴はオハヨウ、コンニチハ、コンバンハ、などの挨拶以外には人に話しかけないことが分かった。
俺が気が付いたと同じことを、青笠も気が付いた。
そして青笠が小釜に言った。
「お前はどういう訳で、挨拶の口上だけは抜かりなく述べやがるんだ。
まるで額へ止まったハエは、手で払うものだと決めたようにうるさいぞ。
匠の手はノミを使うが、いちいちハエを追い払うために肩の骨が伸びてきた訳ではあるまい。
人の口は必要を弁じるために穴が空いているのだが、朝晩の挨拶なんぞは、舌を出しても、屁をたれても間に合うものだ」
俺はこれを聞いて、ズケズケと物を言う青笠がなんとなく気に入った。
三人の匠が揃ったので、正式に長者の前に召されて、このたびの仕事を申し渡された。
夜長皇子の持仏を造るためだと聞いていたが、詳しいことはまだ知らされていなかったのだ。
長者は傍らの皇子を見やって言った。
「この皇子の今生後生を守りたもう尊い仏の御姿を刻んでもらいたいものだ。
持仏堂におさめて、皇子が朝夕拝むものだが、御仏の御姿と、それをおさめる厨子が欲しい。
御仏は弥勒菩薩。
その他は銘々の工夫に任せるが、皇子の十六の正月までに仕上げてもらいたい」
三名の匠がその仕事を正式に受けて挨拶を終えると、酒肴が運ばれた。
長者と皇子は正面に一段高く、左手には三名の匠の膳が、右手にも三つの膳が並べられた。
そこにはまだ人の姿は見えなかったが、たぶんアナマロとその他二名の重臣の座であろうと俺は考えていた。
ところが、アナマロが導いてきたのは二人の女であった。
長者は二人の女を俺達に引合せて、こう言った。
「向こうの高い山を越え、その向こうの湖を越え、そのまた向こうの広い野を越えると、石と岩だけで出来た高い山がある。
その山を泣いて越えると、また広い野があって、そのまた向こうに霧の深い山がある。
またその山を泣いて越えると、広い広い森があって森の中を大きな川が流れている。
その森を三日がかりで泣きながら通り抜けると、何千という、泉が湧き出している里があるのだ。
その里にはひとつの木陰のひとつの泉ごとに、ひとりの娘がハタを織っているそうな。
その里の一番大きな木の下の、一番綺麗な泉の側で、ハタを織っていたのが一番美しい娘で、ここにいる若い方がその娘である。
この娘がハタを織るようになるまでは、娘の母が織っていたが、それがこっちの年をとった女である。
その里から虹の橋を渡って、はるばると皇子の着物を織るために飛騨の奥まで来てくれのだ。
母を月待といい、娘を江奈古という。
皇子の気に入った御仏を造った者には、美しい江奈古を褒美に進ぜよう」
つまりは長者が金に飽かせて買い入れた、ハタを織る美しい奴隷なのだ。
俺の生まれた飛騨の国へも他国から奴隷を買いに来る者があるが、それは男の奴隷で、そして俺のような匠が奴隷に買われていくのだ。
しかし、やむにやまれぬ必要のために、遠い国から買いに来るのだから、奴隷は大切に扱われ、第一等のお客様と同じようにもてなしを受けるそうだが、それも仕事が出来上がるまでの話。
仕事が終わって無用になれば金で買った奴隷だから、人にくれてやることもウワバミにくれてやることも主人の勝手だ。
だから遠国へ買われていくことを好む匠はいないが、女の身なら尚更のことであろう。
可哀想な女たちよ、と俺は思った。
けれども、皇子の気に入った仏像を造った者に江奈古を褒美にやるという長者の言葉は俺を驚かせた。
実は俺は、皇子の気に入るような仏像を造る気は更々無かったのだ。
馬の顔色にそっくりだと言われて山の奥へ夢中で駆け込んでしまった時、俺は日暮れ近くまで滝壷の側にいたあげく、俺は皇子の気に入らない仏像を造るために、いや、仏像では無く、恐ろしい馬の顔の化け物を造るために精魂を傾けてやると覚悟を固めていたのだから。
だから、皇子の気に入った仏像を造った者に江奈古を褒美にやるという長者の言葉は俺に大きな驚愕を与えた。
また、激しい怒りも覚えた。
また、この女は『俺が貰う女』では無いと気が付いたために、ムラムラと嘲りも湧いた。
その雑念を抑えるために、匠の心になりきろうと俺は思った。
親方が教えてくれた匠の心の用いどころは、この時だと思った。
そこで俺は江奈古を見つめた。
大蛇が足に噛み付いても、この目を離しはしないぞと、我と我が胸に言い聞かせながら。
そして、言った。
「この女が、山を越え、湖を越え、野を越え、また山を越えて、野を越えて、また山を越えて、大きな森を越えて、泉の湧く里から来たハタを織る女だと?
それは珍しい動物だ」
そう言う俺の目は江奈古の顔から離れなかったが、一心不乱では無かった。
なぜなら、俺は驚愕と怒りを抑えた代わりに、嘲りが目に宿ってしまったのを、如何ともすることが出来なかったからだ。
その嘲りを、江奈古に向けるのは不当であると気が付いてはいたが、俺の目を江奈古に向けてそこから離すことが出来なければ、目に宿る嘲りも江奈古の顔に向けるほかにどうしようもない。
江奈古が俺の視線に気が付く。
次第に江奈古の顔色が変わった。
俺はしまったと思ったが、江奈古の目に憎しみの炎が燃え立つのを見て、俺もにわかに憎しみに燃えた。
俺と江奈古は全てを忘れ、ただ憎しみを込めて睨み合った。
すると、江奈古の厳しい目が軽く逸れた。
江奈古は、企みに満ちた深い笑いを浮かべて言った。
「私の生国は人の数より馬の数が多いと言われておりますが、馬は人を乗せて走るために、また、畑を耕すために使われています。
こちらのお国では、馬が着物を着て、手にノミを握り、お寺や仏像を造るのに使われていますのね」
俺は即座に言い返す。
「俺の国では、女が野良を耕すが、お前の国では馬が野良を耕すから、馬の代わりに女がハタを織るようだ。
俺の国の馬は、手にノミを握って大工はするが、ハタは織らないな。
せいぜい、ハタを織ってもらおう。
遠路のところ、はなはだ御苦労」
江奈古は弾かれたように目を見開くと、静かに立ち上がった。
長者に軽く黙礼し、ズカズカと俺の前へと進み、立ち止まって俺を見下ろす。
無論俺の目も、江奈古の顔から離れなかった。
すると江奈古は、膳部の横を半周して俺の背後へ回った。
そして、そっと俺の耳をつまんだ。
そんなことか…!と、俺は思った。
所詮、先に目を離したお前の負けだと考えた。
その瞬間であった。
俺は耳に焼かれたような一撃を受けた。
前へのめり、膳部の中に手を突っ込んでしまったことに気が付いたのと、人々のざわめきを耳の底に聞き止めたのは同時であった。
俺は振り向いて江奈古を見た。
江奈古の右手は懐剣のサヤを払って握っていたが、その手は静かに下方に垂れ、微塵も殺意は見られなかった。
江奈古がなんとなく用ありげに、宙に浮かして垂らしているのは、左手の方だ。
その指につままれている物が何物であるかということに、俺は突然気が付いた。
俺は首を回して、俺の左の肩を見た。
なんとなくそこが変だと思っていたが、肩一面に血で濡れていた。
敷物の上にも血が滴っていた。
俺は何か忘れていた、昔のことを思い出すように、耳の痛みに気が付いた。
「これが馬の耳のひとつですよ。
他のひとつはあなたの斧で削ぎ落として、せいぜい人の耳に似せなさい」
江奈古は削ぎ落とした俺の片耳を、俺の酒杯の中へ落として立ち去った。
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