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【6】幸福な遊び
「簾を上げて」
皇子はそう命じた。
たぶん侍女もいるのだろうが、俺は目を開けて確かめるのを控えた。
一時も早く汗の雨だれを食い止めるには、見たいものを見てはならぬ。
俺はもう一度、ジックリと皇子の顔が見たかったのだ。
「耳男よ。
目を開けて。
そして私の問いに答えて」
と皇子が命じた。
俺は渋々目を開けた。
簾は巻かれて、皇子は縁に立っていた。
「お前、江奈古に耳を斬り落とされても、虫ケラに噛まれたようだって?
本当に、そう?」
無邪気な明るい笑顔だと俺は思った。
俺は大きく頷いて、「本当にそうです」と答えた。
「後で嘘だと仰っては駄目だよ」
「そんなことは言いやしません。
虫ケラだと思っているから、死に首も生き首も真っ平です」
皇子がにっこり笑って頷く。
そして皇子は、江奈古に向かって言った。
「江奈古よ。
耳男の片耳も噛んでおやり。
虫ケラに噛まれても腹が立たないそうだから、存分に噛んであげるといい。
虫ケラの歯を貸してあげよう。
亡くなったお母様の形見の品のひとつだけれど、耳男の耳を噛んだ後でお前にあげよう」
皇子は懐剣を取って侍女に渡した。
侍女がそれを捧げて、江奈古の前に差し出す。
俺は江奈古が、よもやそれを受け取るとは考えていなかった。
斧で首を斬る代わりに、戒めの縄を切り払ってやった俺の耳を斬る刀だ。
しかし、江奈古は受け取った。
なるほど、皇子の与えた刀なら受け取らぬ訳にはゆくまいが、よもやその鞘は払うまいと俺はまた考えた。
可憐な皇子は無邪気に悪戯を楽しんでいる。
その明るい笑顔を見るがよい。
虫も殺さぬ笑顔とはこのことだ。
悪戯を楽しむ興奮も無ければ、何かを企む翳りもない。
子供そのものの笑顔であった。
俺はこう思った。
問題は、江奈古が巧みな言葉で手に受けた懐剣を、皇子に返すことが出来るかどうか、ということだ。
まんまと懐剣をせしめることが出来るほど巧みな言葉を思い付けば、尚のこと面白い。
それに応じて、俺がうまいこと警句のひとつも合わせることが出来れば、この上もなしであろう。
皇子は満足して簾を下ろすに相違いない。
俺がこう考えたのは、後で思えば不思議なことだ。
なぜなら皇子は、江奈古に懐剣を与えて、俺の耳を斬れと命じているのだし、俺が片耳を失ったのもその大本はと言えば皇子が理由だからではないか。
そして、俺が恐ろしい魔神の像を刻んでやるぞと心を決めたのも皇子のため。
その像を見て驚く人も、まず皇子でなければならぬ筈だ。
その皇子が、江奈古に懐剣を与えて、俺の耳を斬り落とせと命じているのに、俺がそれを幸福な遊びの一時だとふと考えたのは、本当に不思議なことであった。
皇子の冴え冴えとした笑顔、澄んだつぶらな瞳のせいであろうか。
俺は夢を見ているように不思議でならぬ。
俺は、江奈古が刀の鞘を払うまいと思ったから、その思いを目に込めてウットリと皇子の笑顔に見惚れた。
思えばこれが何よりの不覚、心の隙であったのだろう。
俺が凄まじい気迫に気が付いて目を転じた時、すでに江奈古はズカズカと俺の目の前に進んでいた。
しまった!と俺は思った。
江奈古は俺の鼻先で懐剣の鞘を払い、俺の耳の先をつまんだ。
俺は他の全てを忘れて、皇子を見た。
皇子の言葉がある筈だ。
江奈古に与える皇子の言葉が。
あの冴え冴えと澄んだ子供の笑顔から、当然ほとばしる鶴の一声が。
俺は茫然と皇子の顔を見つめた。
冴えた無邪気な笑顔を。
つぶらな澄み切った目を。
そして俺は放心した。
このようにしている内にも、俺の耳が斬り落されることが、まるで順を追うように分かってはいたが、俺の目は皇子の顔を見つめたままどうすることも出来なかったし、俺の心は目にこもる放心が全てであった。
俺は耳を削ぎ落とされたのちも、皇子をぼんやり仰ぎ見ていた。
俺の耳が削がれた時、俺は皇子のつぶらな目が生き生きと丸く大きく冴えるのを見た。
皇子の頬にやや赤味がさす。
軽い満足が表れて、すぐさま消えた。
すると笑いも消えていた。
ひどく真剣な顔だった。
考え深そうな顔でもあった。
なんだ、これで全部か、と皇子は怒っているように見えた。
そして皇子は振り向いて、物も言わず立ち去ってしまった。
皇子が立ち去ろうとする時、俺の両目に一粒ずつの大粒の涙が溜まっていることに気が付いた。
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