【7】笑顔との戦い

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【7】笑顔との戦い

それからの足かけ三年というものは、俺の戦いの歴史であった。 俺は小屋に閉じこもってノミをふるっていただけだが、俺がノミをふるう力は、俺の目に残る皇子の笑顔に押され続けていた。 俺はそれを押し返すために、必死に戦わなければならなかったのだ。 俺が皇子に自然に見惚れてしまったことは、俺がどのようにあがいても所詮勝ち目が無いように思われたが、俺は是が非でも押し返し、恐ろしい物の怪の像を造らなければと焦った。 俺は怯む心が起こった時、水を浴びることを思いついた。 十杯二十杯と気が遠くなるほど水を浴びた。 またゴマを焚くことから思いついて、俺は松ヤニを(いぶ)した。 また足の裏の土踏まずに火を当てて焼いた。 それらは全て俺の心を奮い起こして、襲いかかるように仕事に励むためであった。 俺の小屋の周りはジメジメした草むらで無数の蛇の棲家だから、小屋の中にも蛇は遠慮なく潜り込んできたが、俺はそれを引き裂いて生き血を飲んだ。 そして蛇の死体を天井から吊るした。 蛇の怨霊が俺に乗り移り、また仕事にも乗り移れと俺は念じた。 俺は心が怯むたびに草むらに出て蛇を捕り、引き裂いて生き血を絞り、一気にあおって、残った生き血を造りかけの物の怪の像に(したた)らせた。 日に七匹、また十匹捕ったから、ひと夏を終わらぬうちに、小屋の周りの草むらの蛇は絶えてしまった。 俺は山に入って日に一袋の蛇を捕った。 小屋の天井は吊るした蛇の死体で一杯になった。 (うじ)がたかり、ムンムンと臭気が立ち込め、風に揺れ、冬が来るとカサカサと風に鳴った。 吊るした蛇が一斉に襲いかかって来るような幻を見ると、俺は却って力が沸いた。 蛇の怨霊が俺に籠って、俺が蛇の化身となって生まれ変わった気がしたからだ。 そして、こうしなければ、俺は仕事を続ける事が出来なかったのだ。 俺は皇子の笑顔を押し返すほど力の籠った物の怪の姿を造り出す自信が無かったのだ。 俺の力だけでは足りないことを悟っていた。 それを戦う苦しさに、いっそ気が違ってしまえばよいと思ったほどだ。 俺の心が皇子に取り憑く怨霊になればよいと念じもした。 しかし、仕事の急所に刻みかかると、必ず一度は皇子の笑顔に押されている俺の怯みに気が付いた。 三年目の春がきた時、七分通り出来上がって仕上げの急所にかかっていたから、俺は蛇の生き血に飢えていた。 俺は山に分け込んで兎や狸、鹿を捕り、胸を裂いて生き血を絞り、はらわたを撒き散らした。 首を切り落として、その血を像に滴らせた。 「血を吸え。 そして、皇子の十六の正月に命が宿って生き物になれ。 人を殺して生き血を吸う鬼となれ」 それは耳の長い何者かの顔であるが、物の怪だか、魔神だか、死神だか、鬼だか、怨霊だか、俺にも得体が知れなかった。 俺はただ皇子の笑顔を押し返すだけの力の籠った恐ろしいものでありさえすれば満足だった。 秋の中頃に小釜が仕事を終えた。 また秋の終わりには青笠も仕事を終えた。 俺は冬になって、ようやく像を造り終えた。 しかし、それを納める厨子にはまだ手をつけていなかった。 厨子の形や模様は、皇子の調度に相応しい可愛いものに限ると思った。 扉を開くと現れる像の凄みを引き立てるには、あくまで可憐な様式に限る。 俺は残された短い日数の間、寝食も忘れて厨子にかかった。 そしてギリギリの大晦日の夜までかかって、ともかく仕上げることが出来た。 手の込んだ細工は出来なかったが、扉には軽く花鳥をあしらった。 豪奢でも華美でも無いが、素朴なところにむしろ気品が宿ったように思った。 深夜に人手を借りて運び出し、小釜と青笠の作品の横へ俺の物を並べた。 俺はとにかく満足だった。 俺は小屋へ戻ると、毛皮を引っかぶって、地底へ引きずり込まれるように眠りこけた。
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