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【8】真に恐ろしいもの
俺は戸を叩く音で目を覚ました。
夜が明けている。
陽はかなり高いようだ。
そうか。
今日が皇子の十六の正月か、と俺はふと思いついた。
戸を叩く音は執拗に続いた。
俺は食物を運んで来た女中か下男だと思った。
「うるさいな。
いつものように、黙って外へ置いていけ。
俺には新年も元旦もありはしない。
ここだけは娑婆が違うということを俺が口を酸っぱくして言って聞かせてあるのが、三年経ってもまだ分からないのか」
「目が覚めたら、戸をお開け」
「きいた風なことを言うな。
俺が戸を開けるのは目が覚めた時じゃない」
「では、いつ、開ける?」
「外に人がいない時だ」
「それは、ほんとだな?」
俺はそれを聞いた時、忘れることの出来ない特徴のある皇子の抑揚を聞きつけて、声の主は皇子その人だと気が付いた。
にわかに俺の全身が恐怖のために凍ったようになる。
どうしてよいのか分からなくて、俺はウロウロと虚しく時間を費やした。
「私が居るうちに出ておいで。
出てこなければ、出てくるようにしてやるよ」
静かな声がこう言った。
皇子が侍女に命じて、戸の外に何か積ませているのを俺は悟っていたが、火打石を打つ音で、それは枯れ柴だと直感した。
俺は弾かれたように戸口へ走り、カンヌキを外して戸を開けた。
戸が開き、そこから風が吹き込むように、皇子はニコニコと小屋の中に入って来た。
俺の前を通り越し、先に立って中へと入る。
三年のうちに、皇子の身体は見違えるように大人になっていた。
顔も大人になっていたが、無邪気な明るい笑顔だけは、三年前と同じように澄み切った子供のものであった。
侍女達は小屋の中を見てたじろいだ。
皇子だけは、たじろいだ気色が無かった。
皇子は珍しそうに室内を見回し、また天井を見回した。
蛇は無数の骨となってぶら下がっていたが、下にも無数の骨が崩れ落ちていた。
「みんな蛇だな」
皇子の笑顔に生き生きとした感動が輝いた。
皇子は頭上に手を差し伸ばし、垂れ下がっている蛇の白骨のひとつを手に取ろうとした。
その白骨が皇子の肩に崩れ落ちる。
皇子はそれを軽く手で払ったが、落ちた物には目もくれなかった。
ひとつひとつが珍しくて、ひとつの物に長く拘っていられない様子に見えた。
「こんなことを思いついたのは、誰?
飛騨の匠の仕事場がみんなこうなのか?
それとも、お前の仕事場だけのこと?」
「たぶん、俺の小屋だけのことでしょう」
皇子は頷きもしなかったが、やがて満足のためか笑顔は一層冴え輝いた。
三年昔、俺が見納めにした皇子の顔は、にわかに真剣に引き締まって退屈しきった顔であったが、俺の小屋では笑顔が絶えることは無かった。
「火をつけなくて良かったね。
燃やしてしまうと、これを見ることが出来なかった」
皇子は全てを見終わると満足して呟いたが、
「でも、もう、燃やしてしまうがよい」
と言い、侍女に枯れ柴を積ませて火をかけさせた。
小屋が煙に包まれ、一時にどっと燃え上がるのを見届けると、皇子は俺に言った。
「珍しい弥勒の像をありがとう。
他の二つに比べて、百層倍も、千層倍も気に入りました。
御褒美をあげたいから、着物を着替えておいで」
明るい無邪気な笑顔であった。
俺の目にそれを残して皇子は去った。
俺は侍女に導かれて入浴し、皇子が与えた着物に着替えた。
そして、奥の間へ導かれた。
俺は恐怖のために、入浴中から上の空であった。
いよいよ皇子に殺されるのだと俺は思った。
俺は皇子の無邪気な笑顔がどのようなものであるかを、思い知ることができた。
江奈古が俺の耳を斬り落とすのを眺めていたのもこの笑顔だし、俺の小屋の天井からぶら下がった無数の蛇を眺めていたのもこの笑顔だ。
俺の耳を斬り落とせと江奈古に命じたのもこの笑顔であるが、江奈古の首を俺の斧で斬り落とせと沙汰が出たのも、実はこの笑顔がそれを見たいと思ったからに相違いない。
あの時、アナマロが早くここを逃げよと俺にすすめて、長者も内々俺がここから逃げることを望んでおられると言ったが、まさしく思い当たる言葉である。
この笑顔に対しては、長者も施す術がないのであろう。
無理もないと俺は思った。
人の祝う元日に、ためらう色もなくわが家の一隅に火をかけたこの笑顔は、地獄の火も怖れなければ、血の池も怖れることがなかろう。
まして俺が造ったバケモノなぞは、この笑顔が七ツ八ツのころのママゴト道具のたぐいであろう。
「珍しい弥勒の像をありがとう。
他のものの百層倍、千層倍も気に入りました」
という皇子の言葉を思い出すと、俺はその怖ろしさにゾッとすくんだ。
俺の造ったあのバケモノになんの凄味があるものか。
人の心を芯から凍らせるまことの力は、ひとつも籠もっていないのだ。
本当に怖ろしいのは、この笑顔だ。
この笑顔こそは、生きた魔神も怨霊も及びがたい真に怖しい唯一の物であろう。
俺は今に至って、ようやくこの笑顔の何たるかを悟ったが、三年間の仕事の間、怖ろしい物を造ろうとしていつも皇子の笑顔に押されていた俺は、分からぬながらも心の一部にそれを感じていたのかも知れない。
真に怖ろしいものを造るためなら、この笑顔に押されるのは当たり前の話であろう。
真に怖ろしいものは、この笑顔に勝るものはないのだから。
今生の思い出に、この笑顔を刻み残して殺されたいと俺は考えた。
俺にとっては、皇子が俺を殺すことはもはや疑う余地がなかった。
それも、今日、風呂から上がって奥の間へ導かれて早々に皇子は俺を殺すであろう。
蛇のように俺を裂いて逆さに吊るすかも知れないとも思った。
そう思うと、恐怖に息の根が止まりかけて、俺は思わず必死に合掌の一念であったが、真に泣き悶えて合掌したところで、あの笑顔が何を受け付けてくれるものでもあるまい。
この運命を切り抜けるには、ともかくこのひとつの方法があるだけだと俺は考えた。
それは俺の匠としての必死の願望にもかなっていた。
とにかく皇子に頼んでみようと俺は思った。
そして、こう心が決まると、俺はようやく風呂から上がることが出来た。
俺は奥の間へ導かれた。
長者が皇子をしたがえて現れる。
俺は挨拶ももどかしく、額を下に擦り付けて、必死に叫んだ。
俺は顔を上げる力が無かったのだ。
「今生のお願いでございます!
皇子さまのお顔お姿を刻ませて下さいませ!
それを刻み残せば、あとはいつ死のうとも悔いはございません!」
意外にもアッサリと長者の返答があった。
「皇子がそれに同意なら、願ってもないことだ。
皇子よ。
異存はないか」
それに答えた皇子の言葉もアッサリと、これまた意外千万であった。
「私が耳男にそれを頼むつもりでした。
耳男が望むなら申し分ございません」
「それは、よかった」
長者は大層喜んで思わず大声で叫んだが、俺に向かって、やさしく言った。
「耳男よ。
顔を上げよ。
三年の間、御苦労だった。
お前の弥勒は皮肉の作だが、彫りの気魂、凡手の作ではない。
ことのほか皇子が気に入ったようだから、それだけで私は満足のほかに付け加える言葉はない。
よく、やってくれた」
長者と皇子は、俺に数々の引き出物をくれた。
その時、長者が付け加えて言った。
「皇子の気に入った像を造った者には江奈古を与えると約束したが、江奈古は死んでしまったから、この約束だけは果たしてやれなくなったのが残念だ」
すると、それをひきとって、皇子が言った。
「江奈古は耳男の耳を斬り落とした懐剣で、喉をついて死んでいたよ。
血に染まった江奈古の着物は、耳男がいま下着にして身に付けているのがそれだ。
身代りに着せてあげるために、男物に仕立て直しておいたんだ」
俺はもうこれしきのことで驚かなくなっていたが、長者の顔が蒼ざめた。
皇子はニコニコと俺を見つめていた。
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