【9】腹の底

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【9】腹の底

その頃、この山奥にまで疱瘡(ほうそう)が流行り、あの村にも、この里にも、死ぬ者がキリもなかった。 疫病はついにこの村にも押し寄せた。 村人達は、家ごと疫病除けの護符をはり、白昼もかたく戸を閉して、一家(ひたい)を集めて日夜神仏に祈っていたが、悪魔はどの隙間から忍び込んでくるものやら、日増しに死ぬ者が多くなる一方だった。 長者の家でも、広い邸内の雨戸を下ろして家族は日中も息を殺していたが、皇子の部屋だけは、皇子が雨戸を閉めさせなかった。 「耳男の造ったバケモノの像は、耳男が無数の蛇を裂き殺し逆さ吊りにして、生き血を浴びながら呪いをこめて刻んだバケモノだから、疫病よけのマジナイぐらいにはなるらしい。 ほかに取り柄もなさそうなバケモノだから、門の外へ飾ってごらん」 と皇子は人に命じて、厨子ごと門前へ据えさせた。 長者の邸には高楼があった。 皇子は時々高楼に昇って村を眺めたが、村はずれの森の中に死者を捨てに行くために運ぶ者の姿を見ると、皇子は一日満ち足りた様子であった。 俺は青笠が残した小屋で、今度こそ皇子の持仏の弥勒の像に精魂を傾けていた。 仏の顔に、皇子の笑顔をうつすのが俺の考えであった。 この邸内で人間らしく動いているのは、皇子と俺の二人だけだった。 俺が弥勒に皇子の笑顔をうつして持仏を刻んでいると聞いて、皇子は一応満足の風ではあったが、実は俺の仕事を気にかけている様子は無かった。 その証拠に、皇子は俺の仕事の(はかど)りを見に来たことはついぞ無かった。 小屋に姿を現すのは、死者を森へ捨てに行く人の群れを見かけた時に決まっていた。 特に俺を選んでそれを聞かせに来るのではなく、邸内の一人一人にもれなく聞かせてまわるのが皇子の楽しみの様子であった。 「今日も死んだ人があるよ」 それを聞かせる時も、ニコニコと楽しそうであった。 ついでに仏像の出来具合いを見て行くようなことも無かった。 『それ』には一目(いちもく)もくれなかった。 そして長くは留まらなかった。 俺は皇子に(なぶ)られているのではないかと疑っていた。 さり気ない風を見せているが、実はやはり元旦に俺を殺すつもりであったに相違いないと俺は時々考えた。 なぜなら、皇子が俺の造ったバケモノを疫病よけに門前に据えさせた時の言葉を人づてに聞いて、思わずすくんでしまったものだ。 俺が呪いをかけて刻んだことまで知り抜いていて、俺を生かしておく皇子が怖ろしいと思った。 三人の匠の作から俺の物を選んでおいて、疫病よけのマジナイにでも使うほかに取り柄もなさそうだとシャアシャアと言う皇子の本当の腹の底が怖ろしかった。 俺に引き出物を与えた元旦には、皇子の言葉に長者までもが蒼ざめてしまった。 皇子の本当の腹の底は、父の長者にも量りかねるのであろう。 皇子が『それ』を行う時まで、皇子の心は全ての人に解きがたい謎であろう。 今は俺を殺すことが念頭に無くとも、元旦にはあったかも知れないし、また明日はあるかも知れない。 皇子が俺の何かに興味を持つということは、すなわち俺が皇子にいつ殺されても不思議ではないということであろう。 俺の弥勒はどうやら皇子の無邪気な笑顔に近づいてきた。 つぶらな瞳。 先端に珠玉をはらんだような瑞々しいすっと通った鼻。 だが、そのような顔の形は特に技術を要することではない。 俺が精魂を傾けて立ち向かわねばならぬものとは、あどけない笑顔の秘密であった。 一点の翳りもなく、冴えた明るい無邪気な笑顔。 そこには血を好む一筋の兆しも示されていない。 魔神に通じるいかなる色も、いかなる匂いも示されていない。 ただあどけない童子のものが笑顔の全てで、どこにも秘密のないものだった。 それが皇子の笑顔の秘密であった。 (皇子の顔は、形のほかに何かが匂っているのかも知れないな。 黄金を絞った露で産湯をつかったから、皇子の身体は生まれながらに輝いて黄金の匂いがすると言われているが、(ぞく)の眼はむしろ鋭く秘密を射当てることがあるものだ。 皇子の顔を包んでいる目に見えぬ匂いを、俺のノミが刻み出さなければならないのだな) 俺はそんなことを考えた。 そして、このあどけない笑顔がいつ俺を殺すかも知れない顔だと考えると、その怖れが俺の仕事の心棒(しんぼう)になった。 ふと手を休めて気がつくと、その怖れが、抱きしめても足りないほど懐かしく心にしみる時があった。 皇子が俺の小屋に現れて、 「今日も人が死んだよ」 という時、俺は何も言うことが出来なくて、概ね皇子の笑顔を見つめているばかりであった。 俺は皇子の本心を訊いてみたいとは思わなかった。 俗念は無益なことだ。 皇子に本心があるとすれば、あどけない笑顔が、そして匂いが全てなのだ。 少なくとも匠にとってはそれが全てであるし、俺の現身(うつしみ)にとってもそれが全てであろう。 三年の昔、俺が皇子の顔に見惚れた時から、それが全部であることが、すでに定められたようなものだった。
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