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まだ若い
「……妊…娠?」
マシュはゆっくりと頷いた。
「……妊娠、」
繰り返してみたが、実感は湧かない。目の前で優しく笑うマシュの顔を見て、それが嘘でないことだけはわかるのだが……。
「だから、体を大切に、って」
医者はもう帰った後だと言う。直接自分で聞きたかったが、本当なのだろうか?
「順調だそうだよ」
マシュはとても嬉しそうだ。
彼と一緒に暮らし始めてから一年足らず。まさか自分が子供を宿すとは、意外だった。まぁ、健全な男女が一つ屋根の下に住んでいるのだから、そうなってもおかしくはないのだが……。
「いいかい、リレィ、今は余計なことは考えなくていい。体を大切にして、元気な子を産んで欲しいんだ」
きゅっ、とリレィの手を握り、マシュ。リレィはなんとも気恥ずかしいような嬉しいような複雑な心境でその手を握り返した。
「私が……母親に…、」
ずっと独りで生きていた。
だから、自分は家庭など持てないと思っていた。父と、母と、子。そんな幸せな構図の中に、自分は一生入り込めないと思っていたのに……。
「まさかまだ生きる価値がないなんて思ってるわけじゃないだろ?」
「それはっ、」
リレィはマシュに言ったのだ。
『私は生きる価値がない人間だ』
と。その気持ちはある意味、今でも持ち続けている。私が生きていてなんになる? 私などいなくてもいい。生きていても、仕方ない存在だ、と。けれどそんなことを口にしたらマシュは怒るだろう。あの時のように。
「リレィ、君は人の親になるんだ。それがどういうことか、わかるかい?」
「……義務とか、責任とか…、」
「違うよ」
「違うのか?」
バツが悪そうにマシュを見上げる。マシュはリレィの頭に手を置き、まるで子供をあやすかのような声色で言った。
「リレィ自信が幸せであること、さ」
「え?」
「幸せじゃない母親に育てられた子供が幸せを感じられると思うかい?」
「……あ、」
胸を、突かれたような気がした。全てを見透かされているようで、少し、怖い。
「リレィ、君は今まで辛い事ばかりだった。でもこれから君を待つのは幸せな日々だよ。私の言うことを信じられるかい?」
うつむく。返事が出来ない。目が覚めるといつもそこにはマシュがいる。悪夢の後、いつも手を握ってくれる温かい人。
「けれど、私はまだ自信がない」
いつからだろう。こんな風に弱音を吐くようになったのは。今までの自分は誰の前でも弱さを見せたことなんてなかったのに、マシュの前ではこんなにも簡単に言えてしまう。
「私はいなくなったりしないよ。リレィを独りにはさせない。それでも不安?」
首を傾げる。
いなくなったりしない。
その言葉は強い。とても強く、リレィを虜にする。
「……わかった。努力する」
至極真面目に頷くリレィを、マシュは微笑ましく見守っていた。
「じゃあ、もう少し眠って」
言われるままにベッドに横たわる。マシュはポンポン、と布団を軽く叩くと、扉の向こうに消えた。
「……私は、生きていてもいいのか?」
誰にともなく、呟く。
『いいに決まってるだろ』
そうだ。
同じ事を言われたっけ。
今でも鮮明に覚えている……。
*****
若い男女が一つ屋根の下、とはよく言われるが、この二人に限っては違う。
リレィがカリムの家に転がり込んでから、早くも一ヶ月が経とうとしていた。
「目覚めのキスくらいいいだろうっ?」
頬に手を当て、叫んでいるのはカリム。
「ふざけるなっ。何度も駄目だと言ってるだろうがっ」
フライパン片手に言い返しているのはリレィ。毎日この調子なのである。いい加減カリムも諦めればいいものを、しつこくリレィに付き纏っていた。
「そんな態度だと男にモテないぞっ」
「モテなくて結構だっ」
「いい年して男を知らないなんてっ、」
「いい年って、私はまだ十七だっ」
「……またぁ~、リレィ、そんなにサバ読まなくても、」
「来月で十八だっ」
カリムの動きが止まる。笑顔が細かく引きつる。スローモーションで首がカクン、と横に折れ、
「……マジ?」
と呟いた。
「いくつだと思ってたんだよ?」
ムッとした声で、リレィ。
「にじゅうろくしち」
更にムッとする。
「だって、そんなに若いとは思わなかったんだっ。妙に落ち着いてるし、胸あったし、世間の酸いも甘いも知ってるような感じだったしっ、」
「……確かに私は年上には見られがちだが、」
横目でカリムを睨む。
「十八かぁ、……驚いたな」
「そう言うお前はいくつなんだっ?」
「俺? 二十八」
「……おっさんだな」
「ひどっ」
カリムが大袈裟に泣き崩れる真似をした。リレィは大きく溜息を吐くと、とっとと朝食の準備をし始めた。最近では役割分担もきちんと決めている。料理は交代制で、掃除、洗濯はリレィ。物資の仕入れはカリム、といった風。
「あ、そうだ。リレィって服のサイズ、いくつだ?」
「服?」
「今日は行商人が通る日なんだ。お前、着替えあんまり持ってないだろ?」
「服なんかなくていい」
そこら辺の女性とはわけが違うのだから。魔物相手に剣を振り回していれば、汚れる、敗れるは当たり前。必要最低限持っていれば事足りる。最近ではカリムの服を借りることも多くなっていたので、不自由はなかった。
「そうはいかないさ。若い娘がボロボロの服なんか着てちゃ駄目だっ」
……さっきまで私が若いこと知らなかったくせに。
心の中でだけ、愚痴る。
「リレィが来たおかげで商売繁盛だし、まとめて何着か買おうと思ってるんだが、」
何故かニヤニヤするカリム。そんな彼の顔をを見、リレィはピン、ときた。
「……変なこと考えてるだろ」
「何のことだ?」
至極真面目な顔で、カリム。
「言っておくが、おかしな格好はしないからなっ。お前の趣味で選んだ服なんか恐ろしくて着られるかっ」
きっととんでもないものを選んでくるに違いない。大きく胸の開いたやつとか、可愛らしい服とか。着せ替えて楽しむつもりなのだ。
「じゃあ、一緒に行くか?」
「へっ?」
「今日は大きなキャラバンが通るんだ。売りにも行きたいし」
「ああ、私のおかげではかどった仕事の報酬を取りに行くのか」
嫌味ったらしく、リレィ。カリムはリレィが来てからというもの、
『お前のおかげで仕事がはかどるよ。なにしろ、今までは捜し歩いて見つけてた上級な魔が、自分から歩いてきてくれるんだもんなぁ』
と冗談めかして言うのだ。確かに、捕縛師にとってリレィは商売繁盛に一役買っている存在だろう。カリムも生活が一気に楽になった、と言っていたし。
しかしリレィにしてみれば複雑な心境だ。毎夜、外に出ては魔物相手に悪戦苦闘なのだから。とはいえ毎日のことである。その数は減りつつあった。このまま続けていたら、世界中から魔という存在がいなくなるのではないかと思えるほどだ。
「意地悪なこと言わないの」
「別に意地悪なんかっ、」
「お前が来てから、俺に悪いことなんて一つもないんだぜ?」
ふっ、と斜に構えて前髪をかき上げる。女誑し的発言である。
「その手には乗らん」
そっぽを向く。とにかくカリムは口がうまいのだ。今まで何度丸め込まれたことか。
「大体、私が人前に出るのを嫌っていること、お前だって知っているだろう?」
リレィは人が多く集まる場所を嫌う。もしその場に魔物が現れたら? それを思うと大勢人が集まる場所には行けないのだ。だから今までだってどんなにカリムに誘われようとも仕入れに同行したことはない。
「いや、でも今回は特別さ」
「なにがっ?」
「今日のキャラバン、普通の人間じゃないから」
「……なんだ、そりゃ?」
「お前の腕より格段上の剣士たちが勢ぞろい、って事だ。まっとうなやつらじゃないんでね、リレィを連れて行きたいのは用心棒的意味も含まれてるんだ」
「まっとうじゃ…ない集団?」
「いわゆる『裏家業の面々』ってことさ」
「ふぅん、」
そういう連中なら……。
「よし、決まり!」
カリムはポン、と手を叩くと、嬉しそうに作業場の方へと向かっていった。この一月でカリムの作品は十近くになっている。彼いわく、今までの半年分だそうだ。捕縛師の作る弓や剣はとても高額で売買される。これだけの数があったら、しばらく仕事などしなくても遊んで暮らせるだろう。
「……キャラバンねぇ、」
興味がないわけじゃない。物珍しい小物や服、見たこともない食べ物や飲み物。街の露店とは違ってキャラバンは色んな国のものを扱っているのだから。しかもカリムのいうようにまっとうでない集団だというのなら、合法的でないものも沢山積んでいるだろう。それはそれで、見てみたい気もするが。
「……まぁ、たまには付き合うか」
リレィはふっと肩をすくめると、作業場に足を向けた。
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