獣になれない傍観者

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   もう一度ちゃんと謝ろうと、昼休み、拓真はサロンへ向かった。生徒会だけが立ち入ることが許される別棟だ。  サロンは広大な庭園を進んだ先にある。  バラの咲き乱れる庭園は迷路のように入り組んでいて、途中に屋根付きの休憩所や水場がある。それを三回通過し、拓真は一旦足を止めた。  これは……迷ったな。  サロンには一度行ったきり。その時は学生寮から外廊下を進んで行った。庭園ルートは初めてなのだ。  とりあえず休もう。拓真はベンチに腰掛けた。授業開始のチャイムが聞こえ、項垂れる。せめて参考書を持ってくればよかった。何もしないでぼうっと時間を潰すなんてバチが当たりそうだ。  ふと、この屋根に登ったらどうだろうと思いついた。屋根に登れば、庭園が一望できるんじゃないか。  早速拓真はベンチを下りた。木の柱にしがみつく。クイッと腕に力を込め、両足を浮かせた瞬間、あ、これ無理だなと絶望した。全然登れる気がしない。 「オナニー中?」   背後から聞こえた声に、拓真は弾かれたように振り返った。ガツンと後頭部に柱が直撃し、地面に尻餅をつく。 「あ、ごめん驚かせた?」  男がかがみ、手を伸ばしてきた。頭を強く打ったせいで視界がはっきりしない。薄目でなんとかピントを合わせ、やっと相手を認識した。  鬱陶しそうな癖毛の髪、気だるげな三白眼、常に品よく上がった口角…… 「佐伯瑛太(さえきえいた)……」 「なんでフルネーム?」  気だるげな目がおかしそうに笑った。 「いや……別に……」  あ、佐伯瑛太だ! と思ったら口に出てしまったのだ。特に意味はない。  ただ、口に出してしまったことで、自分が佐伯を意識していることは伝わった。いたたまれない。きっと佐伯は自分のことなど眼中にない。 「えっと……そっちは特待生の」 「伊藤。伊藤拓真」  そっちかよ。まあいいけど。 「ああ、伊藤くんね。よろしく」  スマートに手を差し出される。握手のつもりで握ると、グッと引き上げられた。  行動までイケメンかっ! 拓真はますます卑屈になった。「どうも」とボソリと礼を言う。 「伊藤くんってさ、オブジェクトフィリアなの?」  佐伯は興味深そうに柱を撫でる。オブジェクトフィリアとは、無生物に性的興奮を覚える人だ。自分は断じて違う。咄嗟に否定しようとして、ふと学食の出来事が頭に過った。過度に否定するのはよくない。ゆるゆると首を横に振る。 「違うよ。この屋根に登ろうとしてただけ」  佐伯はキョトンと瞬きする。 「なんでまた?」 「……道に迷ったから」  キョトンとした表情が、突如破顔する。佐伯はケタケタと笑い出した。黙っていれば雰囲気のある男だから、コロコロと変わる表情につい、見入ってしまう。 「ごめん、違うんだよ。俺さっ……ふふ、まじでオナニーしてるのかと思ったんだ……おっ、本当にいたっ! って嬉しくって。ははっ、普通に考えたらそうだよね。ここ、すっげ複雑だし、俺もスマホがなきゃ無理。あはっ、なんで俺、オナニーしてるって思ったんだろ……あははっ」  あまりにも自分と違う、溌剌な男を見ていたら、勝手に抱いていた敵対心がするすると萎んでいくのを感じた。  もっと、クールで澄ました男だと思っていた。これなら仲良くなれるかも……というか、仲良くなりたいと思った。佐伯はどうか知らないが。  佐伯はひとしきり笑うと目元の涙をちょんちょんと拭い、「あー、腹減った」と呟いた。 「食べてないの?」  「ああ、うん。なんか」  佐伯はそう言ってベンチに座った。学食で高級フレンチが食べられるというのにまさかのゼリー飲料とカロリーメイトだ。 「なんか?」 「んー、なんか」  佐伯はゼリー飲料を開け、吸い上げた。答えてくれないらしい。けれど拒絶された感じはしない。なんとなく彼の濁し方からは配慮を感じた。自分が過度に否定するのを躊躇ったように、彼も、直接的な表現をすると相手を傷つけると判断したのだろう。  大雑把なようで、繊細な心配りもできるらしい。拓真はますます佐伯に興味を持った。 「隣、座っていい?」 「もちろん。食べ終わったら脱出ルートを教えてあげるよ」 「サロンに行きたいんだけど」  座りつつ言った。佐伯も生徒会だ。 「え? あんなとこ何しに行くの? 俺、あそこ嫌いなんだよね」 「僕も好きじゃないよ」  やっぱり佐伯とは仲良くできそうだ。  拓真は学食での出来事を打ち明けようと思った。サロンに好んで行くわけではないと知って欲しい。自分は田舎育ちの庶民で、お茶会や賭博には興味がないのだ。  けれど開きかけた唇が固まった。チラと佐伯を見る。マスカット味のゼリー飲料と、プレーンのカロリーメイト。  佐伯は、味わえているのだろうか。  もし佐伯がロンドなら、何も説明できない。ロンドに偏見があると打ち明けるようなものなのだから。 「俺の実家さ、リサイクルショップを経営してたんだよ」  拓真が黙り込んでいると、佐伯がポツリと言った。  拓真は佐伯を見るが、佐伯はまっすぐ前を向いている。彼は正面から見るより、横顔の方がずっと美しかった。 「家具、オーディオ、服、なんでも買い取って、なんでも売るんだ。だだっ広い倉庫に雑然と並べてさ、少しでも安くリビングを完成させたい夫婦とか、掘り出し物を探しに来るサラリーマンとか、いろんな客が来た……なんの話って感じ? まあ聞いてよ」  佐伯はカロリーメイトを一口食べた。しっかりと咀嚼している。ロンドなら、舌触りの悪いものを口の中に広げているようなもの。普通なら顔をしかめるが、佐伯の表情は涼しげだ。 「俺はあの空間が好きだった。ある人にとっては不要なものが、別のある人にとってはお宝なんだ。泣く泣く手放す人もいるよ。でもそういうのってさ、もっと大事に使ってくれる人に譲りたいっていう、深い愛情からなんだ。俺はそういう、ささやかなドラマを見るのが好きだった。小さい時は一日中親父にくっついて、買取カウンターの中にいたっけ。大量に服が持ち込まれると嬉しかったな。だいたいタンスの臭いなんだけど、たまに、ものすごくいい匂いがするものもあって……ああ、これを着ていたのはワルツだろうなあ。どんな味がするんだろうなあって想像しては、飢えを凌いでた」  拓真はゴクリと生唾を飲んだ。こころなしか、佐伯の口角がクイっと上がったような気がした。でも彼は常にそういう表情だ。 「……貧乏とまでは言わないけど、裕福ではなかったからね。ワルツの肉なんか食べさせて貰えなかった。味なんてものは、俺の世界にはなかった。あるのは食感だけさ。食事は苦行だよ」  でも彼は寄付金を積んで生徒会にいる。学力特待生の拓真を差し置いて、入学試験で一位の成績を収めているが、彼は一般入学なのだ。 「親父は俺にワルツの肉を食わせるために、ワルツの肉の買取を始めた。それが成功して店は大繁盛さ。当時は体を売りたいと思ったら、食品会社に何日も拘束されなきゃいけなかった。でもうちに来れば、金が欲しい時に気軽に体を買い取ってもらえる。ロンドは新鮮な肉を買うことができる。うちの店は肉屋になった。年季の入ったソファセットも年代物のカメラも記名された服も無くなって、店は冷蔵ショーケースだけになった」  佐伯は口に咥えたゼリー飲料を握りつぶした。それを口から外し、カロリーメイトの空箱と一緒に袋に入れる。 「……本人ならいい。俺だって自分の体が金になるならきっと売るよ。味によって買い取り価格が変わるんだ。自分の味にどれだけの値がつくのか知りたいじゃないか」  先天的に、ワルツの体は味が違う。味は美醜に比例すると言われているが、生活習慣や精神状態によって変わるため、美しい人間が美味とは一概には判断できない。 「……でも、母親に無理矢理連れてこられる子供なんか見てられない。……俺は、親父は鬼畜だと思ったよ。母親が『できるだけたくさん』って言ったら、その通りに子供の肉を削るんだ。子供が『痛い』って泣き叫ぶから、店の奥に防音室を作った。笑えるくらい儲かったんだよ」  拓真は思わず「麻酔、かけないの?」と口を挟んだ。 「かけない。味が落ちるからね」  佐伯はこともなげに言った。  知らなかった。拓真は目を見開いた。なら、今日の学食の肉は…… 「ここで出される肉だってそうさ。十二歳以下の子供が、自分の意思で体を売るわけない。こういう所だから、それ専門の施設があるのかもしれない。とにかく、強制なのは間違いない。子供が麻酔も掛けて貰えずに、富裕層のために体を削り取られているんだよ」  その言葉で、佐伯が学食に足を運んでいたのだと知った。彼は「本日のメニュー」を見て、引き返したのかもしれない。 「伊藤くんってさ、もしかして堂野先輩と三崎先輩に謝ってた?」  見られていたのか。じわっと頬が熱くなった。 「ぼうっとメニュー眺めてる学生がいたから、なんだろうって気になったんだ。そうしたら二人が話しかけて……サロンへは、あの二人に謝りに行こうとしてるんじゃないの?」 「……うん」  そこまで言い当てられては、認めるしかなかった。 「そう……何があったか、聞いてもいい?」  拓真はこくりと頷いた。彼がロンドと判明しても、今なら打ち明けても良いような気がしている。  拓真は学食での出来事を説明した。自分がロンドに対してどういう印象を持っているかも、包み隠さず打ち明けた。  佐伯は何度も頷いてくれるから、話しやすかった。気を悪くさせていないか、チラと彼の表情を伺うと、「いいよ、話して」と彼は先を促した。そうして全てを聞き終えると、「伊藤くんは悪くないと思うけど、二人には謝っといた方がいいかもね」とサラリと言った。彼のような友人がいたら、どんなに心強いだろう。拓真は隣の男と友達になりたいと強く思った。 「この学校が異常なんだよ。ロンドが堂々としていて良いわけがない。ロンドなんて響きの良い名称にしたって、結局ただの異常者じゃないか。食盲、食人症候群、こっちの方がよっぽど相応しい。ワルツは食盲被害者、被虐者とかね」  下手なことは言えなかった。物心ついた時から、彼は当事者として悩み苦しんできたはずだ。家業でワルツが受ける仕打ちを目の当たりにし、自分の体質に嫌悪感を抱いたのだとしたら、根底にあるのは優しさだ。それを当事者でもない自分が気安く「そんなふうに卑下しちゃいけないよ」なんて、言えるはずがなかった。  拓真が黙っていると、佐伯は「伊藤くんはいいな」と言った。なんの異常もなくて、という意味で捉えたが、佐伯は「言わない優しさがあって」と続けた。  ああ彼はこうやって人を見極めてきたのだなと、拓真は切ないような、途方もない気持ちになった。自分はロンドの苦悩を何も知らない。それなのに勝手に怖れて警戒していた。 「……佐伯くん、僕と、友達になってくれる?」  なんて幼稚な言葉だろう。膝の上で握った拳に力が入った。佐伯の視線が、拳に注がれているのを感じる。 「あ、遊びに行こうとか、そういう意味じゃないよ。ただ、たまにこうやって話したり……佐伯くんさえ良ければ、僕もここで昼ごはん食べたいなー……なんて」 「なんで? 遊びも行こうよ」  佐伯は爽やかに言った。 「伊藤くんって繊細だよね。俺も、自分で言うのもなんだけど、結構モヤモヤ考えるタイプだからわかるよ。ごめんね、さっきはオブジェクトフィリアなんて言って」 「い、いや……いいんだよ。全然、気にしてないから……」  佐伯は小さく頷いた。自分と似ている、と拓真は思った。終わったことをいつまでも引きずってしまうのだ。でも相手は気にしていない場合がほとんどだ。 「よかった」  佐伯は立ち上がった。 「じゃあ、そろそろ行こうか。嫌なことはさっさと終わらせた方がいい」  並ぶと、佐伯は頭ひとつ分大きかった。劣等感は芽生えなかった。彼と友達になれたことが誇らしい。このポジションを、卒業までキープしたいと拓真は思った。
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