5人が本棚に入れています
本棚に追加
「お母さん!」
60歳前後に見える、大きな荷物を3つも抱えた女性が病室に入ってきた。
鞄には着替えやタオルが入っているのだろうか。
トミナガさんの娘さんだと思われた。
「意識不明の状態で発見されたって、しかも頭から血を流してたって聞いて、一瞬パニックになったわよ。大丈夫なの?ね、私が誰だか分かる?」
それまで誰が来ても、か細い声で弱々しく、短く返事をしていたトミナガさんだったけど、今回は違った。
「いい加減にしてちょうだい!」
トミナガさんはパニックを起こしているようだった。
大声で怒鳴った。
「何なの、みんなして。次から次にやってきて、私は誰でしょうクイズを出して。私は病人なのよ。ゆっくり寝させてちょうだい!」
「みんなしてって、何よ!私は今、来た所じゃない!」
突然の展開に、娘さんもパニックを起こしているのか、怒鳴り返す。
トミナガさんと見舞い客の会話を全部、聞いていた私は理解できる。
あれは鬱陶しいだろう。
怒りたくなる気持ちが分かる。
久しぶりに会う人から次々に「私は誰でしょう、名前をお答えください」と言われるのは、かなり面倒くさい。
しかも正確に答えないと、頭を打ったからだと心配されてしまう。
「ゆっくり寝させて」とトミナガさんが言うのも、当然だと思った。
怒鳴り返した娘さんに対して、トミナガさんは今度はキレた。
テーブルに置いてあったプラスチックのコップを娘さんに投げつけた。
だけど娘さんは運動神経が良かった。
飛んできたコップをヒョイっとよけた。
そしてコップは向かいのベッドへと飛んで行く。
そして、向かいのおばさんも運動神経が良かった。
飛んできたコップをヒョイっとよけた。
だけど、向かいのおばさんはイヤホンをしてテレビを見ていた。
急に体を動かしたものだから、イヤホンがテレビから抜けてしまった。
もの凄い爆音が病室内に響き渡る。
あの人、あんなに大音量でテレビを見てたんだ。
知らなかった。
おばさんは慌ててボリュームを下げようとするのだけれど、突然の出来事にパニックになっているのか、押すボタンを間違えている。
音はさらに、うるさくなっていく。
「ちょっと!これどうしたらいいの!」
おばさんが叫び声をあげている。
テレビの電源を切った方が早いと思った私は、お手伝いをしようとベッドから立ち上がった。
すると爆音のテレビの横、私からは向かいのベッドから
「うぐっっっ」
という苦しそうな声が聞こえてきた。
バンバンと布団を叩く音も聞こえてくる。
何か異常事態が発生したと踏んだ私は
「失礼します。開けますよ」
と声をかけると、返事を待たずにカーテンをシャっと引いた。
そこではお向かいさんが、手に大福を持った状態で苦しんでいた。
口の周りには白い粉がいっぱい。
大福を食べていた所に急に予期せぬ大きな音が聞こえてきて、驚いて喉に詰まらせたらしい。
パニックになっているのか、大福を持っていない方の手でバンバンと布団を叩いている。
「看護師さん、呼びますね」
私がナースコールのボタンを押そうとすると
「だ……め…」
と手を押さえられてしまった。
「おやつ…… ばれる……怒られる…」
そうだ、お向かいさんは食事制限があったんだ。
お向かいさんを告げ口するようなことはしたくない。
だけど、このまま何もせずにいて、もし窒息して死んでしまったら?
病室内には相変わらず爆音でテレビが流れている。
耳が痛い、思考が鈍る。
私の手を握るお向かいさんの指の力がどんどん強くなる。
爪が食い込んで痛い。
どうしたらいい?
どうしたらいい?
私もパニックになった。
最初のコメントを投稿しよう!