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「ワニワニパニック……」
満員電車まではいかない、程よく混んだ電車内。目の前に立つ青年のリュックにぶら下がっているのは、緑色のワニ。口を大きく開けて、歯を剥き出しにしている、あのワニ。机の上でやるような大きいものではなく、キーホルダーになって逆さ吊りにされてしまってはいるが、紛れもなくワニワニパニックそのものだった。
「しかも、一つ押されてる」
心の中で言ったのか、口から出たのかわからないが、そんなことを思いながら、押し込まれた歯を凝視してしまう。持ち主の彼が押したのか、はたまた誰かがこっそり押したのか。そんなことを考えていると、押してしまいたい衝動に駆られる。一度生まれた衝動は、どんどんと大きくなる。
「いやいや……」
見ず知らずの人のリュックについたキーホルダーを触るなど、変質者以外の何者でもない。そんなことできるはずもない。しかし、そんなことを思いながらも、押す歯を選んでいる自分がいる。
「そっとなら……」
膨らんだ衝動に抗いきれずに、そっと手を伸ばす。ワニに噛まれることなど全く考えずに。
ゆっくりと伸ばした手がワニに触れる直前に、ガタン、と電車が揺れる。
「あっ……」
伸ばした手が空を切り、青年に軽く触れる。
「すみません」
振り向いた青年に小さく頭を下げる。青年も、
「いえ」
と小さく返すだけで、すぐに首を戻す。これでよかったのだろう。少し冷静になった頭で考える。変質者にならずに済んだ。
「え……」
思わず声が漏れる。ふと見えたワニの口はしっかりと閉じられていた。自分は触れていないはず。いや、そう思っているのは自分だけで、実は触れてしまっていたのだろうか。はたまた、電車の揺れで閉じてしまったのか。考えれば考えるほどわからない。
「ワニワニパニック……」
そしてまた、ぶら下がったワニから目が離せなくなる。
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