受付の人「接触する欠片」

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受付の人「接触する欠片」

 こん。  受付カウンターを軽く叩く音。  顔を上げると桜木類(さくらぎるい)がこちらを見ていた。    私は、受付カウンター内のパソコンを使い、日報に見せかけながら、実は趣味の脚本を書くという内職をしていたので取り急ぎ別のソフトを立ち上げ隠した。    昼休みに入ったところだったので、本来は自由時間であり秘密にする必要はない。  けれど主人公のモデルを類にしているせいか、本人を目の前にすると何だか悪いことをしている気がしてしまう。   「お昼、行ってきていい?」  カウンターに半身を預けて類が訊く。   経営者の親族が、何故、ただの受付スタッフに行動の許可を求めるのか意味不明だが、類はこういう話し方を良くする。    ──もう帰っていい?  ──ちょっと休憩していい?    子供じゃないのだからすきにしたらいいのに。  一従業員としては「はい、行ってらっしゃいませ」としか返しようがない。    自分に自信のなさそうな人物では全然ないのに。  いつもの奔放にみえる言動と一致しなくて不思議に思っている。  なぜそんなに他人の顔色を伺うような物言いをするのだろう。    類の後ろにいた経営者の眞一郎先生にも会釈する。  類は「唯が来たら一階のカフェにいるって伝えて」と言づけてカウンターからゆっくり躰を離した。  長身の二人はエレベーターホールに向かって去っていった。    ※ ※ ※    私はこのダンス教室──翠スタジオの正社員だが、講師ではないので踊ることはない。  主に受付と広報、(たま)に経理に携わっている。    もうすぐ勤続七年目になる。    音大卒でミュージカルの舞台にも出ていたから桜木眞一郎先生は知っていた。  表舞台を早く退いて、子供向けのダンス教室をはじめた人だ。今では教育事業まで手を広げている。    在学中に大した役も貰えなかった私は、卒業後は裏方か舞台関係で働こうと思っていたので望みどおりの就職先だった。    福利厚生は十分だし残業が少なく有給休暇も取りやすい。結婚することがあれば産休も育休もとれる。    そして、本当は類のことが気になっていたのも、就職をここに決めた一因だった。  今隠した舞台の脚本も、実力があったのに辞めたダンサーの話──類をモデルに書いている。    過去に書いた似たようなモチーフの脚本が、小さな賞をとったり小劇団で舞台化されたりしていた。    けれど、モデルがバレたことはない。  勿論ペンネームで書いているし、なるべく脚色も入れている。  辞めたダンサーなんて山ほどいるのだから未来永劫どうせ誰にもわからない。    類は眞一郎先生の甥で三十歳を過ぎている。    大学生の頃はダンス関係のイベントや舞台に毎週のように出演していて人気もあった。  けれど、就職と同時に殆ど人前で踊ることはなくなった。    なんて勿体ない、と当時は思ったものだ。   私の場合とは違う。  実力も需要があったのだから。  残念だった。  理解ができなかった。    正確な軸。  綺麗な軌道。  練習は倍速で踊ってから本来の速度に戻すことをやっていたと後から聞いて驚いた。  倍速で踊れる身体能力がまず凄い。  その上で等速に落とすと余裕がでるので学生なのに大人っぽい躰の使い方に憧れた。    さらに、振りが飛んでも咄嗟にアドリブで繋げる度胸もあった。    身長があり手足も長いので実力に加え見栄えも良い。派手ではないが顔も整っている。    恵まれていたのに本人にとっては学生時代のお遊びだったのか。  あっさり辞めてしまって、なんて欲がない。  今は週に一度くらい、ふらっと来ては空いているスタジオで踊っていく。  ジム代わりに使っているのだろう。  年に何回かあるスタジオの公演では卒業生として出演することもある。    ──何にしろ、もう過去のことだ。    大学卒業とともに辞めなくても、三十歳を過ぎた今ではどのみち第一線にはいられないだろう。  だから結果は大して変わらないのかもしれない。    今、類は、ダンスとは全然関係ない職種についている。  祖父母が経営していた大手商社を継いでいるらしいが、会社の運営などは方針だけ決めて人に任せ、自分は関連会社で輸入酒の配達をしているそうだ。    車の運転がすきだし、仕事中に気に入った音楽を聴けるし、重いものを持つから躰も鍛えられるし、と本人が話していた。  変わっている人だと思う。    毎月、多額の役員報酬が入ってくるのに、少額の配送業までする意味がわからない。趣味なのだろうか。    才能があったダンスの道を蹴って。  役員報酬だけで優雅に暮らすのも蹴って。  それで肉体労働なんて。  私には解らない。    どんな人なのか、気になって仕方がないが、なるべく遠くから眺めているだけにしている。  必要以上に接近しないのが襤褸(ぼろ)をださないこつだ。    脚本の中の類は、時々接触する欠片を蒐集(しゅうしゅう)し、残りは私の妄想で増幅した、ただの偽物だ。   「こんにちは」    か細い澄んでいる声。  顔を上げると唯がふわりと立っていた。  会うのは三箇月ぶりか──また痩せたのではないだろうか。  手にしている畳まれたフリル付きの日傘が儚い雰囲気によく似合っていた。    類の妹で二歳差だから二十九歳。  歳は私と一緒だが、他に共通項はたぶんない。    私は丈夫だしがざつな性格なので日傘なんてさしたことはない。  持ってもいない。   今後も買うことはないだろうし、誰かにプレゼントされるような人柄とも思えない。    類に買ってもらったのだろうか。  あんな兄がいるなんて少し羨ましい。  いや大変かもしれないけれど。    唯は、もともと体調が不安定な人だったが、昨年急に悪化してひどく痩せてしまった。  今の唯を見たら誰もが心配する。見るからに病人だ。  本人も気にしているのだろう、カーディガンとロングスカートで体型を隠している。それでも目に入ってしまう手首や足首が折れそうなほど細い。   「唯さん、お久しぶりです。眞一郎先生と類さん、つい先ほど一階のカフェのほうに行きました」  頼まれた内容を伝えると「ありがとうございます」と会釈してゆっくりゆっくり受付を離れていく。  その時間をかけた動作は、やはり病気のせいだと思われた。    ──一年程前。  この唯の病気について、由宇には黙っていてほしいと経営者側から依頼があった。つまりは箝口令(かんこうれい)だ。    由宇は、私が就職した七年前にはすでに翠スタジオに通っていた特待生の男の子で。  年齢は私や唯より十歳下の十九歳。    ハーフのような茶色の瞳と髪で可愛らしい容姿をしていて──帰国子女だときいているので本当にハーフなのかもしれないが──おとなしすぎてちょっと孤立していた。     職員から見ると心配になる生徒だが、類と唯の兄妹にはとても懐いていた。    唯が病気で痩せてしまった時期と、由宇の大学受験が被ったので、勉強に集中するべき時期に不安な気持ちにさせないようにという配慮から、そういう話がでて。    でも、由宇が四月に無事大学生となった後も、唯の体調が悪化するばかりで。  結局、九月の現在まで、誰も事実を由宇に告げられないまま、ずるずるきてしまっている。  予定より長引いている。    ※ ※ ※    受付スタッフは交代で昼食を取る。  後輩が戻ってきた代わりに、私は書きかけの脚本の展開をあれこれ考えながら、財布を持って席を離れた。    到着したエレベーターに乗ると、既に、上階にある系列の塾のバイトの子たちが八人ほど乗っていて賑やかだった。    そこに由宇がいた。  もう一人スタジオ所属の子もいたので三人で会釈をしつつ、私は、これは良くない展開かもしれない、と胸騒ぎがした。    一階のカフェに唯がたぶんいるだろう。  このエレベーターは一階まで行って──その後、この子らまでカフェには行かないだろうとは思うが──。    そこまでの偶然はきっとない──にしろ、一階で、一瞬でも、すれ違う可能性がないとは言えない。  兄妹と由宇の付き合いは十年近いはずなので、ちらっとでも視界に入れば気づいてしまうだろう。    由宇は、春に大学生になった後、学費のために系列の塾──翠学院でバイトをはじめていた。    そもそも翠スタジオの特待生は訳ありとスタッフは皆知っている。    ダンスが上手いからではない。    率直に言えば、家庭に問題のある子を、無料で通わせてあげられる制度だった。  恵まれてない子供の居場所を作りたいと眞一郎先生が提案したもので。    スタジオができた十五年前に既にその制度はあったらしく、その頃はダンス教室というより学童のような役割だったそうだ。    だから、スタジオの特待生である由宇は、資金面でバイトは避けられない家庭環境にいて。  そして、今まで翠スタジオと翠学院は、駅の反対側にそれぞれ位置していた。それが、この秋、駅前にできた商業施設に両方まとめて移転した。    その話を聞いたとき、ちょっといやな予感はしていたが──。  当たってしまった。  私が一階のカフェを通り過ぎようとしたとき、由宇が唯の腕を掴んで立ちつくしている姿があった。    ──見つかってる。    由宇の気持ちを考えると心が痛む。  あんなに懐いて、後をついて回っていたのに。  一年以上会えなくて。  やっと会えたら痩せてしまっていて。    自分を頼りなく思われていたように感じてショックだろう。  私は、なぜか由宇には感情移入してしまう。    そう考えていたとき、地震がきた。  屋外でこれだけはっきり揺れを感じるなら震度四とか五とかそのくらいはありそうだ。  一生懸命、由宇が怯えている唯を守ろうとしている。可愛いな、とちょっと笑ってしまう。  大きい者が小さい者を守っていたら、きっとそんなふうには思わない。    私には二人は双子のように良く似て見える。もともと唯が小さい由宇の面倒をみてダンスを教えていたのでフォームが似ている。  手足の使い方も似ている。  大して変わらない体格なのに、背伸びをして守ろうとしているのが、いじらしくて可愛く見えるのだろう。    地震はおさまったようだ。    井の頭公園へ降りる階段沿いに気に入っているランチの店があるのだけど、今日は地震のせいなのか、なんとなく不安な気持ちになり池が怖くて諦めた。    井の頭公園には大きな池がある。  幅の広い階段に差し掛かれば、それはもう視界に入ってしまう。    私は池が苦手なのだ。  沼──かもしれない。    池と沼の違いがよく解らないが、とにかく底の見えない液体の集まりが怖い。  プールや綺麗な海などは、深さが解るし怖くはないから、都会の日常生活で困ることは少ないのだけれど。    ※ ※ ※  結局隣のビルでパスタを食べ、化粧室に寄って受付に戻ると、私の席になぜか類がいた。  大きな柱に背をもたれてパソコンの画面を見ている。  画面を見ると、書きかけの脚本が開きっぱなしで、私はぎくりと躰が強張った。    類に「バレたから」と言われて一瞬脚本のことかと焦ったが、すぐに唯のことだと思い当たった。  なにしろ、私もそこにいたのだから。   「箝口令、撤廃しておきますね」と返しながらさりげなく動画編集ソフトを立ち上げ、脚本を書いていたエディタを裏に隠した。  先月撮ったイベント映像の不要な場面を切り取っていく。    類の視線はまだパソコン上にある。  座って作業している私の後方に立って眺めている。  脚本を読んでいたように思ったのだけど、単に画面に目線があっただけで考えごとでもしていたのだろうか。    例え読まれたとしても、自分がモデルだとはまさか気づかないはず、と心を切り替える。  犯罪を犯しているわけではない。  心の中でどう作品に変換しようと解るはずはない。    それにしても、何故、私のことを後ろから見張っているのだろう。 「この編集中のイベントに興味あるんですか?」  画面から目を離さずに背後の類に問いかける。 「いや──唯と同じ歳だよね」  類はぼそっと言って、大きな柱から怠そうに躰を引き離すと、私の横に来てしゃがんだ。仕事ではなく個人的なことのようだ。   「一応、そうですが」  つられて小声になる。 「十歳年下の男の子に、部屋の鍵を渡す?」 「あの──由宇ちゃんのことですか」 「うん。唯の部屋、広いし。由宇の学校からも近いし」 「外から見てるぶんには、まるで姉弟のように仲が良いので違和感はないですけど」  私は由宇ちゃんに加勢するつもりでそう応えた。  唯の部屋の鍵をもらえたら、きっとよろこぶにちがいない。  なるべく味方をしてあげたい。   「いや、仮にあんたの部屋の鍵を由宇がほしいと言ったら渡す? 普通の感覚が知りたい」 「下宿みたいな感じでしょうか。由宇ちゃん礼儀正しいですし、金銭的に困っているようなら助けてあげたいとは思います。期間は区切るかもしれませんが。苦学生だと認識してます」 「下宿か。なるほどね。やっぱり学生は子供かな」 「そうですね。大人の助けはまだいると思います」 「うん──ありがとう。参考になった」  結局、脚本は見られてなかったのだな、と胸を撫でおろした。  ──由宇ちゃんが鍵をもらえますように。    類が屈めてた躰を伸ばす。  少し汗ばんでいた。  どうしても閉じこもって事務作業をしている内勤職員に室温を合わせると、控えめな設定になりがちだ。    目にかかる汗だけ袖で拭いてエレベーターホール脇の自販機へ向かっていく。  猫科の大型獣のようなしなやかな躰。  筋肉があるから代謝がいいのだろう。  くちびるや、真っ黒な瞳も髪も、いつも潤っている。  水分が多い人だと思う。  スポーツドリンクを一気にあおる。  そのまま内階段で三階のスタジオに消えた。    七年間、月に数回は話をする機会があったのに結局ダンスを辞めた理由を聞いたことはない。    聞いてはいけない気がして。     ──一度聞いたら。  知らなかった頃には戻れない。      了
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