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唯「嵐の夜に」
「お兄ちゃん、私、お風呂入ってくる」
唯は子供のころ、兄に「入浴するときは俺を呼べよ」と言われていた。
お父さんが覗きにくるから。
脱衣所でいつも兄は携帯ゲームを片手に見張っていてくれる。
唯は急いで頭や躰を洗う。
早く済ませないと。
お父さんが来たら。
お兄ちゃんが。
磨りガラスの向こうで脱衣所の扉が開けられる気配がする。
──がたん。
壁に何か打つかる音。
衣擦れ。
押し殺した声。
唯は小さかったけど、兄が父親に何をされているかは、もう、なんとなく解っていた。
※ ※ ※
両親と祖父母は唯が中学に入った頃に亡くなった。
唯は今年二十九歳。
兄は類という名で、歳は二つ上になる。
一年前、唯は兄の扶養に入った。
食べられなくなって眠れなくなって働けなくなって泣いていたから。
「ごめんね、類」
「いいよ、俺も今一人だし」
唯は、昔から精神的に弱く、それが身体症状として現れた。
服薬は中学生から続けていたが、去年ついに立ち行かなくなった。
それからは、福祉制度の支援と類の庇護を受けて暮らしている。
先日、精神科から福祉事務所へ提出する診断書を覗き見たら、症状の経過欄に書いてあった文字は。
──大幅な改善は見込めず。
文字で見ると妙に重たい。
もうすぐ二十代も終わるのに、これからどうすれば良いのか途方にくれる。
さらに二十七歳の時に婦人科の病気も見つかって、子宮を全て摘出している。きっともう結婚も出来ないだろう。
あれもそれもこれも、どんどん怖いものが増えていく。
テレビの音が広がる様も怖い。
お風呂の水面が揺れるのさえ怖い。
人が怖い。夜が怖い。死ぬのも痛そうで怖い。
でも、生きるのも、もう怖い。
※ ※ ※
九月なのに猛暑がきつくて、唯は月末にやっと通院以外で外出をした。
マンションは最寄駅の吉祥寺から徒歩八分の物件のはずだが、唯が歩くと二十分はかかる。体力が落ちていて日傘さえも重く感じる。
駅前に商業ビルが新しくできて、そこに叔父である眞一郎先生が経営しているダンス教室が移転したそうだ。
「やっと涼しくなってきたし、唯ちゃんの気分転換に、見学がてら簡単なバイトでもどうかと思って」という眞一郎先生からの連絡をきっかけに何とか外出ができた。
たぶん、兄が裏で頼んでくれたのだと思う。部屋に引き籠っている妹のために。
気温が上がる前の時間帯のほうが躰が楽だろうと、十時に呼んでもらったのに、身支度に手間取ってもうお昼になりそうだ。
思うように躰を動かせない。身支度といっても化粧もネイルもしていない。
そんな細部を飾る気力はとっくに消えてしまって、ひたすら人混みに紛れる程度の身なりを目指した。
部屋着に何か羽織って、とにかく一歩、外に出る。
どうせ他人は自分のことなんて見ていないのだと言い聞かせて。
真新しい大きなビルの一階はコンビニとカフェが並んでいた。
ダンス教室はビルの二階と三階を借りている。
携帯のメッセージを読むと、案の定、兄の類もいるようだ。
二階にある受付に顔を出すと見覚えのあるスタッフさんが応対してくれだ。
「唯さん、お久しぶりです。眞一郎先生と類さん、つい先ほど一階のカフェのほうに行きました」
慌てて携帯の追加メッセージを確認すると殆ど同じ内容が届いていた。気づかなかった。
二時間も遅刻したので昼時にかかってしまい食事に移動したのだろう。自分が悪い。仕方がない。
この受付スタッフさんは兄のことを良く見ている気がする。
兄は女癖が悪いのでややこしいことにならないと良いのだけれど、と考えながら礼を言ってエレベーターホールに戻った。
階数案内板を見ると、地下はイベントホールになっていて、一階は、先程、見かけたコンビニとカフェ、二階三階は翠スタジオ。
四階五階に系列の塾である翠学院。
その上は美容院や眼科などのフロアがあり、全部で七階建てだった。
高い建物を見ると希死念慮が頭をもたげてくる。
七階では衝撃が足りないだろうから実行の候補にはなり得ない。
後遺症でも残って生き延びたら最悪だ。
──少なくとも十階の高さはいるように思う。
今、住んでるマンションは、残念ながら、内廊下の物件なので、真ん中のエレベーターの周囲に住戸がある構造になっている。
これだと、自宅以外の階から飛び降りるには、他所の家のベランダに入れてもらわなくてはならない。非現実的だ。類はわかっていて物件を選んだのだろうか。
同じマンションで唯の部屋は五階。類は十階に住んでいる。兄の部屋の鍵は唯に与えられていない。
ずっと、臆病な唯は、飛び降りは無理だと思っていたのだけど、ある映像を見て自分にもできるかもしれないと考えを改めた。
それは二人組の女の子が生配信したもので、カメラのこちらを見たまま、手を繋いで背中から後ろ向きに落ちていった。
地面を向いて落ちるより怖くなさそうに思えた。
唯は、その女の子たちのようになりたい。
一緒に飛んでくれる子がいて心強かっただろう。
報道では二人とも即死だった。痛みも一瞬で今はもう苦しむことはないところにいった。羨ましい。代わってほしいと願ってしまう。
せっかく外出できて久しぶりに人にも会うというのに希死念慮が止まらない。
カフェに着くと窓側に並んでいるテーブルのひとつに、類と眞一郎先生が座っているのを見つけた。
二人に近寄ろうとすると、その前を横切る集団がいたので通り過ぎるのを待つ。
さわがしい会話内容が聞こえて、塾講バイトの仲間らしいと解った。
翠学院──と印字された封筒をそれぞれ持っている。
八名ほどが固まって喋りながら歩いていたので、やり過ごしてから窓側へ移動しようと体を小さくしていたら、その中に知ってる顔があった。
しまった、と思った。
目が合った。
──由宇だ。
ちらと遠目に類と眞一郎先生も、失敗した、と互いに目を合わせたのが解る。
由宇は、奥の二人と入り口の唯を見回した。そして集団を抜けて唯のほうに、ゆっくり歩み寄ってきた。
──一年振りに姿を見た。
由宇の受験前に距離を置いてそれきりだった。
また背が伸びている気がする。
初めて会ったときは、由宇はまだ小学生で唯のほうが背が高かったのに、今では抜かされてしまった。
十歳の差はあるものの、唯が女で、由宇が男だから、結局そうなるだろうとは予想していたけれど。
他はそんなにイメージは変わらない。茶系の長めの髪とか、薄い躰とか。
お互い目は見ていない。
由宇に手首を無言で掴まれた。
指で囲ってまるで唯の手首の細さを測っているようだ。
きっとこんなに痩せてしまってと思われているのだろう。
──だから会わないでいたのに。
塾講バイトの集団から視線を感じる。
「え、彼女?」
「普段は、おとなしい感じなのにびっくりした──」
そんな小声も聞こえる。
由宇は、きっと大学やバイト先で物静かに遠慮して過ごしているのだと想像できる。
それなのに、急に十歳も年上の女性の手首をいきなり掴んだら、それはちょっと驚かれるだろう。
バイト仲間の反応を無視して、手首を離さない。
やっと口を開いた。
低い声。
「知らなかったの俺だけ?」
「由宇ちゃんは受験だったしね」
間に入って眞一郎先生が優しく執りなした。
この人は、悪気なく、今でもそれが由宇にとって最善だったと信じているのだろう。
「半年前に終わりましたし──直人は? 知ってたんですか。俺だけ?」
類は席も立たず声だけで割って入った。
「直人とお前じゃ、頭の出来が違うだろうが」
「おんなじ大学入ったじゃん!」
「直人が面倒みてくれたからだろ。それに唯の体調知ってたら勉強なんて手につかないで受験自体できたか怪しいんじゃないの」
由宇が類に掴みかかり、唯の手首は自由になった。
由宇は、類にシャツの首元を引っ張られ強引に横に座らされている。
「言い返せないと、すぐ手が出るの悪い癖だから直しな」
由宇は首を咥えられた子猫のように大人しくなった。
不意にビルが揺れた。
「地震?」
「地震だ」
回りから騒めく声が聞こえる。
一階にいても気づくのだからそれなりの規模だけど、周囲はあまり緊張感がない。
東京では地震が多いし、皆、慣れている。
──でも唯は怖い。
眞一郎先生が、このビルに移転を検討していたとき、見せてもらった工事計画書のアイソレータを思い出す。
一度揺れ出すと止まらないアイソレータを想像すると怖い。
ダンパーで抑制する仕組みは建築物としては優秀なのだろうけど、地盤から建物を浮かす構造が怖い。
そもそも、今、唯は、突発的なことは全て怖い。ただでさえ久しぶりの外出は怖かったのに。
床にしゃがみこんだ唯を見て、由宇も椅子から降りた。
唯を正面から抱え込む。頭と腰にそれぞれ手を回して。
震度四くらいか。もっとあるかもしれない。
揺れが長くて酔いそうだ。
唯には、学生バイトの子たちが、こちらを見て何か話しているように感じられる。
幻聴だろうか。被害妄想だろうか。
──自分にはそういう症状はないはずなのだけど。
本当にただのご近所さんで、兄妹ぐるみの付き合いだし、そもそも唯が十歳も年上なのだ。
由宇が明日、大学やバイト先で何か言われないかと心配になる。
そもそも、引っ込み思案な由宇はうまく学生生活を過ごしているのだろうか。
地震がおさまった。
由宇の顔がすぐ近くにある。
本来、唯は男性が苦手だが、子供や老人は平気なようで由宇は許容範囲に入っている。子供だという認識だ。
そもそも出会ったときに、由宇は小学生だったので、今、大学生になってもその印象が抜けていないのだろう。
唯は由宇に両手を引かれて立ちあがる。
「怖い気持ち減ったよ。ありがとうね」
唯が言うと由宇が嬉しそうに「うん」と応えた。
お使いを褒められてよろこぶ子供。
唯にはそう見えている。
「由宇。遅くなってごめんね、合格おめでとう。受験頑張ったね」
久しぶりに由宇の髪に触れた。柔らかくて日に透ける。
半分くらいは、もうこのまま由宇には会えないかな、と思っていた。それならそれで仕方がないと。
希死念慮がずっと頭を離れなくて。
何年か距離を置いてからいなくなったほうが、この子が疵つかない気がして。
※ ※ ※
十年前の通院日。
今は兄と一緒だが、当時はまだ一人で病院に行くことができていて。
帰り道に井の頭公園の大きな池に架かる橋の前まできたとき、ボート乗り場の近くで、びしょびしょに濡れて泣いている子供を見かけた。
三月末の昼過ぎは、まだ寒いのに。
来月なら花見で人も多いだろうが、今はまだまばらで。
自分以外に人影は見当たらない。
──どうしよう。
小学生に見えるがあとはよくわからなかった。
男の子か女の子かも判別がつかない。
雨は降ってないのに──池の水なのだろうか。落ちたのかもしれない。でも公衆トイレにも水はある。苛められたとか──。
訊いてみても何も応えず泣くばかりなので、冷えた手を引いて橋を渡った。
少し歩いて吉祥寺駅まで出れば、叔父が経営してるダンス教室がある。
シャワーや着替えを借りれるだろう。
時間が合えば兄もいるかもしれない。
この頃は、今の大きな商業ビルではなく、駅から北口を出て商店街を入ったすぐのところの小さなビルにあった。
裏口で、ちょうど煙草を吸ってる兄──類を見つけてほっとした。
「何もわからないんだけど濡れていたから連れてきた」
ほとんど何も説明できていない。
類は、ちらと目だけ動かして子供を見ると「男の子だからこっちでみる」と連れていった。
あまり首を動かさずに、目だけで物を見る類の癖は、不機嫌なように感じられて唯は少し怖い。
頼りになるのだけれど。
背も高いし筋肉もあるし荒っぽいし──何より父親に外見が似ていることが怖い。
類が歳を重ねたらきっと、もっと似てくるだろう。
父親を想起させられることは唯には怖い。
ずっと類が自分を守ってくれたことは勿論、唯は理解している。
──頭では。
自分に良くしてくれている類にはとても言えない。
類に責任はない。
好んでその姿をしているわけではないのだから。
三十分後、男子更衣室からさっきの男の子がロビーに走ってきた。唯を見つけると隣にぺたりと座って腰に手を回してくる。
遅れて来た類が自動販売機に小銭を入れて「どれすき?」と訊いた。
男の子は、類と唯の顔を交互に見るだけで選べない。
結局、類が適当にペットボトルのお茶を買って渡したが、今度は蓋を開けるのがうまくいっていない。
類が「貸してみ」と受け取って蓋を開けてやると、由宇が横から飲み口にくちびるを寄せた。
そのまま類が容器を傾けると素直に飲んだ。
喉が渇いていたのか、ほとんど一気に。
なんだか、ものすごく人懐こい上に可愛らしくて犬か猫みたいだった。
茶色の髪と瞳はハーフなのだろうか。
ずっと兄妹にくっついて帰りたがらないので困った。
向かいのコンビニでお菓子を買ってあげると「春休みで給食ないから、食べるものがなくて、どうしようかなって思ってた」と言うので唯は類と目を見合わせた。
──どうしよう?
類が聞き出した話によると、生まれてから半分はアメリカにいて。
英語が話せて。
日本語は久しぶりで咄嗟に言葉が出てこなかったりするらしい。
両親ともに日本人で別居中。
今は母親と住んでいるが留守がちだと言う。
帰国子女ではあるがハーフではなかった。
抱きついてきたり腰に手を回されて少し驚いたけど、海外住まいの影響なのかと納得した。
初対面なのに距離感が近いのは家庭環境から寂しいのかもしれない、と思うと小学生相手に振り払うのもためらわれる。
唯は綺麗な茶色の瞳を覗き込みながら訊く。
「お名前は?」
「ゆう」
「どんな字?」
「自由の由に、宇宙の宇」
「似合うね。いい名前だね」
類が眞一郎先生と連絡をとって特待生の手書きの仮カードを受付からもらってきた。
家が貧しいとか居場所がない子が、このスタジオのシャワーやロッカーなどを自由に無料で使えるカード。
「いつでもおいで。今度来るまでに、ちゃんと印刷したカードを用意しておくから」
類が説明を終えたあと「家はどこ?」と訊いたら帰りたくないとまた泣いた。
由宇なんて小さくて泣き虫で最初女の子かと思ったくらいなのに。
今は病気の唯のほうが小さくて泣き虫になってしまった。
※ ※ ※
意図せず由宇と再会してしまったけれど、冬になる前でまだ良かったと唯は思う。
冬になると、手足の脱力や声が出にくいなどの症状もでてきて。
──その状態をいきなり由宇に見せるよりは。
今、同じマンションで、類は十階、唯は五階、と部屋を分けているのは。
飛び降り防止もあるが、他の症状も影響している。
特に聴覚過敏が。
類はずっと音楽をかけているし、仕事で電話もかかってくる。唯は不安定になると、エアコンの音さえ無理で。
突然鳴るのが怖くてインターホンも切っていて。
かなり特殊な暮らしぶりになっている。
その五階の唯の部屋に、再会した日から一箇月くらいで、もう当たり前のように由宇は居ついた。
殆ど無音の生活が苦ではないらしい。
一年以上会えなかった反動か、前よりも距離が近い。
──夕方六時。
今夜は嵐が来る。
寝室で唯と由宇は姉弟のように寄り添っている。
窓の外が光ったと思ったら雷鳴が防音ガラスの向こうで轟く。
風の音の唸り。
雨もかなり強い。
今年の秋は台風が多い。
かなり近づいている。
「このマンションは付近で一番新しくて強い構造だし。台風くらいなら安全だよ」
由宇がベッドの端に腰掛けて窓の外を見ながら唯を安心させるように話しかけた。
唯はその隣で毛布をかぶって震えている。
脚を崩して由宇の肩に頭を乗せながら言う。
「とにかく怖いの。理屈じゃないの」
二人を読書スタンドが淡く照らす。
続けて唯がいいわけのように呟く。
「飛行機は落ちるし、船は沈むと思ってる。台風がきたら建物は壊れるの」
極端な物言いに由宇が揶揄う。
「天は落ちてくるんだよね」
「由宇、それ、なんだっけ」
「古代中国の列子。太陽や月も落ちるって心配する男の話」
唯はその列子は自分の仲間だと思った。
由宇が、気が紛れるようにと英語の絵本を読んでくれていたが、唯があまりに外を気にしているので中断している。
片手は唯の腰を抱き寄せて。
帰国子女だからなのか、そうすると落ち着くのか、小学生の頃から、由宇は唯の腰によく手を回している。
そして唯も、由宇の隣で触れられているのは落ち着く。
それでも外のこの荒れようでは心配のほうが勝ってしまう。
もしも毎日、同じ天気、同じ気温──変化が少なければもっとましな気持ちで過ごせるのに。
いつもの夜とは違う景色、違う音に不安で眠れない。
──また、雷。
抗不安剤はさっき追加で頓服を飲んだ。
これ以上は時間を空けないと飲んではいけない決まりがある。
──怖い。怖い。怖い。
いつの間にか、読書スタンドは消されて、二人、ベッドの上に向かいあって座り込んでいる。
縮こまって上半身を折る唯のうなじあたりに由宇の頬がある。相変わらず唯の腰を抱き寄せて。
胸にちらりと由宇の指が軽く触れて通り過ぎる。
暗いし偶然当たってしまったのだろうと、唯はなかったことにした。
でも、再度、服の上から胸に指先を感じたので故意だと気づいた。
──え。どうしよう。
まだ夕方で夜じゃないし、と思ってた。
小学生から知ってる子だから、と油断した。
泣き虫で弱かったのに。
振り払ったら傷つけてしまうだろうか。
──大人としてどうしよう。
十歳も年上なのに、こういうことは苦手だ。
そもそも男性が怖いのだから。
穏便に自分を下げて断ろうと試みる。
「あのね、私、そういうの苦手で」
由宇は優しく言い含める。
「うん。もうだんだん日が暮れてきて見えないし大丈夫」
──見えないかどうかの問題ではなくて。
「あのね、本当に」
「誰にも言わないし触るだけだから安心して」
──誰かに言うかどうかの問題でもなくて。
「待って」
「きっと疲れて、よく眠れると思うんだよね」
──いい考えでしょ。
そう言って由宇が笑う。
まるで子供が自慢しているよう。
なんとか眠らせてあげたいと思ってくれている気持ちは解ったが、困る。
──一言でいうなら、困る。
服の上から、ゆっくり胸元を撫でられる。すごく微細な力で。
唯は声を抑えて、なるべく静かにやり過ごす。
由宇はそうっと動く。
何かに見つからないように。
さっき飲んだ抗不安剤には眠気の副作用がある。
効いてきたのかなんだかもうよくわからなくてぼうっとする。
かるく耳なりもする。
わんわんと頭にひびく。
かみなりが光ったけど音はもうきこえなかった。
※ ※ ※
締め切った遮光カーテンの隙間から日差しが入って、ベッドに縞模様ができている。
目が覚めると朝で由宇はもういなかった。
平日なので学校だろう。
十時間以上眠れたようだ。
途中夢さえ見なかった。
自分の服や躰を確認する。
特に異常はなさそうに思える。
本人が言ったとおり、触るだけ、だったのだろう。
どのみち何かあったとしても、子宮がないのだから大事になりようがない。
二年前に子宮の手術を終えた後、膣の奥に疵口があるのを知って怖くなった。
空にした子宮をひっくり返してそこから引っ張り出したと説明された。
だから、次に男の人とそういう機会があればきっと怖いと思っていた。
見えない行き止まりに大きな疵痕があるなんて。
朦朧としていたけど由宇の細い指を入れられたように思う。
でも恐怖は感じなかった。
さらには嫌悪する気持ちも湧いてこなかった。
どうやら唯の中で由宇は男性の括りに入っていないようだ。
だからといって女性だと思っているわけでもない。
──では何だろう。
小さい頃から知っているから子供にいたずらされたくらいの捉えかたなのだろうか。
弟のように思っていたとしても。
──変だ。
普通姉弟でそんなことはしないだろう。
不思議と不快感もなかった。
確かに眠れたけど複雑だ。
──類が知ったらどうしよう。
怒るだろうか。
奔放な性格だから気にも留めないかもしれない。
唯が子宮全摘手術を受けたとき「ヤり放題じゃん」と病室で暴言吐いて看護師さんに怒られていた。
奔放というかもう倫理観がおかしい。
そもそも、類自身は、相手が女性でも男性でも構わないような人だし、歳の差なんてさらにどうでも良さそうだけれど。
──揶揄われるだろうか。
それとも、もしかしたら心配されるかもしれない。
だけど、触られただけだし。
一応──でも隠しておこう。
枕元に手を伸ばして、携帯を見ると、翠スタジオで同期の百合から久々に連絡がきていた。
〈一緒に死んじゃおうか〉
唯は半分心配して、半分うれしかった。
百合は、結婚もして、お子さんもいるはずなのにどうしたんだろう。大変なことが──職場は、もう舞台は引退しているし──家庭で何かあったのだろうか。
それとも自分みたいに病気になったのだろうか。
由宇とのことより、こっちのほうが余程隠さなくては。
いや、逆か。
相談するべきなのか。
でも誰に。
──類に。
──百合の旦那さんに。
でも、誰にも言えなくて、自分に送ってきたのだったら他人には言えない。
いつか見た女の子の二人組が飛び降りる映像を思い出した。
羨ましかった、あの子たち。
百合となら飛べるかもしれない。
※ ※ ※
百合のメールから二週間が経つ。
──一緒に考えよう。
とりあえず、そう返事をしたけれど、あれから何も連絡はない。
そしてそのことを誰にも言えていない。
由宇は、唯が寝つけない夜は頻繁に触ってくるようになっていた。
このことも誰にも言えていない。
あれこれ悩まされていたら、兄の幼馴染み──透哉が様子を伺いに来てくれた。
十階の類の部屋に訪れた後、ときどき五階にも顔を出してくれる。
ちょうど良い。
唯のほうも透哉に聞いてみたいことがある。
昔は躰が小さくて外見も女の子みたいで一緒に遊んだりもした。
今では類より背が高いけれど、不思議と唯は怖くない。
線が細くて男性っぽくはないからだろうか。
美容師でさえ怖くて女性しか指名できないのに珍しいことではある。
由宇同様、小さな頃から知っているからかもしれない。
「体調とか、どう?」
声も若干中性的ではある。
「低いところで安定している感じです」
「由宇のこと、困ってない?」
二言目にそうきたか。
透哉が知ってるなら、類も気づいているのだろう。
この二人の関係性を唯は知っている。
類の部屋へ行くと普通に二人で裸で寝ていたりするので。
妹に隠そうとか配慮するつもりは全く類にはないらしい。
そうなると今回のようなことは話しやすい相手で。
「──結構、困ってます」
真面目に応えたら「そうだよね、僕でも困るよ」とおかしそうに透哉が笑う。
面白がってるのかなこの人。
「なんだか良く解らなくて」
それが正直なところだ。
「由宇はちょっと変わってるからね」
唯から見たら透哉も変わっているのだけれど。
「怒ったほうがいいのかな」
唯が訊く。
「怒るというか、嫌なら拒否しないと。唯ちゃんが良いなら良いけど。だって、されてることは痴漢と一緒でしょ」
「──そんな、そこまで言わなくても」
唯は、そんなに酷いことをされているとまでは思っていない。
どちらかというと疑問に思っている。
「何でしょう、これ。変なの。触るだけ触って、私が疲れたら寝かせて終わりです」
たぶん、最後まではされていないのも中途半端で変だ。
透哉も首を傾げている。
「良かれと思ってやってるのかな。不安に感じるなら断ったら」
確かに、由宇本人がどうこうしたいというよりも。
あくまで唯が寝つけるように、そう良かれと思ってやっているだけ──なのかもしれない。
「断ったら今度は傷つけないかなと不安です」
「断らないと舐められるだけだよ。この子は何してもおとなしいって」
──流されてないで一度断って様子をみてみようか。
「あの、話変わるんですけど」
唯が切り出すと透哉は「うん」と先を促した。
「どうして、百合じゃだめだったの?」
言葉にしたら唯は関係ないのに少し涙が出そうになった。
十年くらい前、透哉と別れてから百合はずっと病んでいる。
透哉は困ったように応えた。
「──だって、それじゃ、死にますって脅したら、誰とでも付き合えることになってしまわない?」
──それはそう。
透哉が正しい。
別に透哉が浮気したとかそういう話ではない。
百合が自滅しただけだ。
むしろ透哉は振り回されて被害者に近い。
そうなのだけど。
「──百合から何か連絡あった?」
透哉に訊かれて唯はメールのことを伝えようか迷ったが結局は俯いただけだった。
それは肯定と同じことだ。
※ ※ ※
「──うちの子になりたいんだって」
類が開口一番にそう言ったので唯は物凄く驚いた。
「由宇が!?」
数日後、類の部屋に呼び出されて。
最初、由宇とのことか、それとも百合とのメールについて透哉に聞いたか、と気後れしたけど全然違う話だった。
──吃驚した。
類は、自分に加えて由宇まで扶養するつもりなのだろうか。
「──医学部に転部したいんだって」
もう一度、唯は驚いた。
自分のせいではない、と思いたい。重すぎる。
唯は高卒なので大学の細かい仕組みがわからない。転部なんて制度をはじめて聞いた。そんなことができるのか。
──由紀が医者になる?
なったところで治せるような病気でもない。
いつもの薬を処方するか、または今往診で点滴してもらっている先生の代わりにそれができるくらいだろう。
類が他人事のように言う。
「なんか、唯に執着してるよな。別に治せるなんて子供っぽいこと考えてないからって言ってたけど、どうだか」
「類が、由宇に私の病気がバレたとき、直人と頭の出来が違うとか言ったからじゃないの」
直人は、由宇と同じ大学の医学部にいる。
「俺のせい?」
心外だと言わんばかりの類。
兄妹で責任を押しつけ合っていても仕方がない。
「私、重い。私のせいと思うと、重くて正直しんどい。どうしよう」
若い子の人生曲げてしまって。
良くない気がする。
「難関大学受かったのは直人のおかげもあるけど、もともと脳が優秀なんだろ。そういう子は──さらっとできちゃったものって関心が薄い。新たに目標ができたなら良いのかも」
良いの──だろうか。
「そういうものかな。大変だろうし。難しそう」
泣き虫の由宇にそんなことできるのか。
唯は心配になる。
「勉強も大変になるし。奨学金を追加で借りられるかとかでも行き詰まってる。うちの子になりたいっていうのは──だったら良かったのになっていう意味で由宇は言ったと思うけど。俺はありかなって」
軽い口調で類は話しているけれど。
それはつまり。
「うちの子にって類の養子になるってことだよね? 可能なの?」
「無理ではないよ。普通養子縁組なら、そんなに条件は厳しくない。ただ、由宇は今、十九だから、二十歳になってからのほうが手続きは楽かな──」
養子制度の説明は、難しそうな単語が多くて、唯はしっかりと理解はできなくて。
──類の声を聞きながら別のことを考えていた。
類は昔、学生結婚も考えた彼女を病気で亡くしている。
そう思うと、両親亡くして、祖父母亡くして、彼女も亡くして。
さらに、今、唯に希死念慮があるということは、妹も亡くしそうなのかと考えると、とても申し訳ない気持ちになっていたけれど。
本当に類が由宇を養子にするなら。
自分がいなくなっても許される気がした。
「まだ確定ではないから本人には言うなよ。どっちにしろ、卒業して研修終えて就職したらもう大人の手は要らないだろうし、繋ぎというか」
「うん」
由宇の実家は、今、母親とその再婚相手との間に乳児がいて。由宇は殆ど居ないものとして扱われている。
そんなところにいるくらいなら。
うちにきたらいいと唯も思う。
「中途半端に情をかけるだけじゃ可哀想だと思うから。手続きちゃんとした上で学費なり生活なり助けたいと思ってる」
類が話を締めた。
重たい話だったので疲れた唯に類が口移しでスポーツドリンクを飲ませてくれた。
飲みこんだ途端、唯が笑ったので、類は怪訝そうな顔をする。
最近、由宇がスムージーを唯に口移しで飲ませてくれるようになっていたのだけど。
類と比べてしまうと、拙いな、可愛いなと思い出してしまって。
「──それと、百合と何話してる?」
さらっと最後に聞かれて知らない表情を作れなかった。
「携帯貸してみ」
いつも兄が適当なぶん、真面目に詰め寄られると唯は怖い。
素直に携帯を渡した。
百合とのやりとりを確認しながら類が言う。
「会うなよ。精神的に不安定なやつ同士で会ったって碌なことになんないだろ。最近、百合は透哉のこと付け回したりもしてる。なんか危ないから近寄るな」
類から見せられた、最近の百合の写真。
透哉をストーカーしている証拠──なのだろう。
自分よりも痩せている。
きっと気力だけで動いている。
「こんな、こんな痩せてたら立てないよ」
体感として唯には解る。
震えたり痺れたり動悸だって。
「解ってるよ。本人捕まえられたら旦那さんが入院させる手筈でいるから。たぶん──」
類は声を少し落とした。
「透哉に結婚話が出てる。それを聞きつけておかしくなってる」
もう透哉は三十歳を過ぎているしそれは変ではないけれど。
百合のほうはとっくに別の人と結婚して子供もいるのに──やっぱり忘れられないのだろうか。
「もし、結婚のこと聞かれたら、ただの噂だと流しといて」
言いながら類に携帯を返された。
「うそをつけって言うの?」
「実際、まだ決定ではない。そんな状況でどっから漏れたのか、そっちも気になる。──故意に百合に悪意で伝えたやつがいそう。だから──」
「──解った」
「うそをつきたくなければ、携帯を俺に持ってきて。代わりにメール返すから」
そうやって。
つらい役目は全部代わってくれて。
お兄ちゃんは。
昔から。
了
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