直人 序章「すぐ助けるから」

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直人 序章「すぐ助けるから」

 ──Humpty Dumpty sat on a wall,  ──Humpty Dumpty had a great fall.  ──All the king's horses and all the king's men  ──Couldn't put Humpty together again.  ──ハンプティ・ダンプティが壁に座ったよ  ──ハンプティ・ダンプティが壁から落っこちた  ──王様の馬と家来が皆でがんばっても  ──ハンプティを元には戻せなかった  ※ ※ ※  飲み会の罰ゲームは「三十秒間、女子からくすぐられる」という可愛いものだった。    女子から、というところに配慮がある。もし、負けたのが女子でも、同性同士なら笑って済むだろう。  女子を男子がくすぐったら問題になるから──社員の人たちは、そう判断していたのだと思う。    でも、負けたのは由宇だった。    男子だから「なんだ残念」とはならなかった。可愛い子だから。  皆の好奇の視線を受けて、由宇は青くなっている。    ──やばいかも。    直人はとめようか迷う。  バイト先の空気は悪くなるだろうが由宇は大切な友達だ。    塾の夏期合宿の最終日。  高尾の合宿所。  生徒はもう就寝時間を過ぎて各部屋で寝ている。  講師と手伝いのバイトで集まり慰安会をしていたが雲行きが怪しくなった。    周囲が囃し立て、社員の一人が由宇を羽交締めにした。そこに塾内で一番可愛いバイトの女子が照れながら近づく。   「離して──」    掠れた由宇の叫びは冷やかす歓声にかき消されてしまう。    表情を見たら本気で怯えているのに何故、皆、気づかないのだろう。    正直、直人は、自分だったら可愛い子からくすぐられるのはうれしい、と思う。歓迎だ。    でも由宇はいやがっている──というより怖がっているように見えた。    女子が両手を広げて脇腹あたりに触れた途端、いやだぁぁ──と、由宇の高い悲鳴があがって場が凍りついた。    直人が、女子との間に割って入るのと、由宇が押さえている社員から逃れようと暴れたのが同時だった。    がしゃん。    直人の眼鏡が由宇の手に当たって吹っ飛んだ。 「ごめん──」  謝りながらこっちを見た由宇の大きな瞳には涙が溜まっていた。そのまま踵を返してこの場から逃げ出す。    慌てて後を追う。  荷物は違う部屋だけどポケットの携帯さえあれば目黒の家まで帰れるだろう。  そうしたら替えの眼鏡もある。    正面玄関を出てすぐのところで追いついた。 「ごめんな。もっと早くとめたら良かった」  声をかけながら肩を引っ張って振り向かせる。  由宇を見ると、案の定、真っ赤な顔を涙でぐしゃぐしゃにして両手で覆って泣いていた。引き攣れたような変な泣き方で過呼吸に近い。    合宿所から自宅は距離があるがこの状態の由宇を電車に乗せるわけにはいかない。  急いでタクシーを呼んだ。  蝉の声に邪魔されながら現在地を告げる。    ※ ※ ※    由宇とはじめて会ったのは中学受験が終わった春だった。     親の勧める中高一貫の有名私立に受かったあと、それまで塾一本だったのを「学校の必修科目になったから」と近所のダンス教室に入会させられた。    そこに由宇がいた。    可愛らしい名前と外見から、最初は女の子かと勘違いして更衣室で驚いた。    同じ歳だったが話す機会は少なくて。  由宇は人見知りでスタジオで浮いていたから。  唯一懐いていたのは、随分── 一回り歳上の兄妹だった。    類と唯という綺麗な兄妹で、スタジオの経営者が叔父にあたるときいている。    由宇は家庭に恵まれておらず、良く洋服のお古を兄妹から貰っていた。大好きな二人からの御下がりにとてもよろこんでいて。    茶色の髪で毛先がくるん、としているので公立中学では証明書を取らねばならず、類が学校に掛け合った話もある。    父親は単身赴任で母親は不倫。由宇のまわりで相談できる大人は類しかいなかったのだろう。    高三になって大学受験の季節になったとき、類に呼ばれた。 「由宇に勉強を教えてやってくれないかな。もちろんお金は払うよ」    直人は成績が良くて、希望校の本番一年前に行われる模試で既に合格ラインにいた。  つまり制度が許せば飛び級できるくらいの余裕があった。    だから頼まれたのだろう。  報酬も良かったし由宇のことも可愛いなと気になっていたので、二つ返事で引き受けた。    受験がはじまると、類は二人のために快適な自習室も借りてくれた。    由宇の家は、当時、母親の不倫がバレて離婚し、そのまま不倫相手の子供を産んだので赤ん坊がいた。  とても勉強できる環境ではなかった。  直人は、学校に行って、まず塾に寄る。由宇はその間、先に自習室で勉強している。塾が終わると合流する──という一年間がはじまった。    由宇はそれまで学校以外で勉強したことがなかったらしいが物凄く覚えが良かった。    加えて、九歳以前は、海外と日本を行き来していた帰国子女だったので英語にはアドバンテージがある。    少し教えただけでぐんぐん成績が伸びる。  全然手がかからない。  意外と負けず嫌いで根気もある。 「これ、俺と同じランク狙えるかもしれないですよ」  類に経過を報告すると「結構、気ぃ強いだろ」と笑っていた。  受験なんて競争なのだから気が強いに越したことはない。    毎日一緒に勉強していると性格も見えてくる。  人見知りというより内弁慶なのだ。仲良くなると急にべたべた躰をくっつけ甘えてくるようになった。    心を許すと妙に距離感が近いのは海外生活の影響か。それとも、家庭環境が甘えられるものではなかったからか。    ちょうど由宇が直人に懐きだした頃──受験期の五月だったろうか。  再度、類に呼ばれた。   「悪いけど、頼める?」    唯の病気が悪化し、かなり痩せてしまった。  精神的なもので自殺未遂もした。  受験を控えている由宇が知ったら動揺させてしまう。  由宇を唯に会わせないようにする相談。   「由宇に言っては駄目だよ」  ──言っては駄目だよ。  言ってしまったら戻らない。  知らなかった頃には戻れない。    今まで兄妹に頼って甘えてた部分を一年間代わってほしい。  支えてほしい。    なんなら、類より唯にべったりだったくらいなので黙っておきたい気持ちは良く解る。    一度懐いたら遠慮のない由宇なので、類の顔を見れば絶対に唯に会わせろとせがむだろう。  そうなると類も距離をとらざるを得ない。    報酬を倍にしてもらったこともあり、直人は、さらに由宇を甘やかす役目も引き受けた。    それは、当初「受験が終わるまで」のはずだった。    でも唯の体調がどんどん悪化していて。  結局、この夏までずるずる伸びている。    そろそろ安定した支えを失っているままの由宇が限界かもしれない。    ※ ※ ※    タクシーの中で、由宇は暫くしゃくりあげて泣いていたが、疲れたのだろう、今は眠っている。  直人の右手を離さずに。    直人は迷っていた。  類に先程のことを報告しようかどうか。    バイト先の塾も、スタジオ同様、兄妹の叔父が経営者だった。  だから直人も由宇も時給を優遇してもらっている。    直人のほうは、最悪、今回のことで気まずくなってやめたとしても困らない。  そもそも実家が太いので、普通に暮らすには仕送りで十分足りている。ちょっと良い服がほしいからバイトしている程度だ。    でも、由宇は違う。  自分で学費を稼がなくてはならない。  あんな泣いて帰るようなことがあって明日バイトに行くのはつらいだろう。  それでも、もうやめてしまえとは言ってあげられない。そうしたら由宇の学費を誰が払うのか。    そんな──やめるほどの苛めではないようにも思う。  もし、負けたのが別の者だったなら笑って済むようなことではある。  経営者の親族に告げ口するような──ことだろうか。    たぶん、由宇は何かが怖くて、あんな──絹を裂くような、女みたいな悲鳴をあげた。    ──怖かったのは何だろう。   「眼鏡、ごめん──」  いつの間にか起きていた由宇が(うつむ)いたまま言った。  繋いでる手が少し震えている。 「全然いいよ。俺のほうこそ、もっと早くとめれば良かったのに──ごめん」    タクシーの窓からの景色は横長で高い建物がない。  目黒の自宅まではまだかかりそうだ。 「寝てて大丈夫だよ」  震える手が離れていって、代わりに腰のあたりに抱きつかれた。上半身だけが横に引っ張られてよじれる。    別に直人に対しては普段から距離が近い。男同士としては過剰なくらいだ。    ──女子だったから。  ──あまり良く知らない子だったから。  ──触られた箇所がいやだから。    どれだろう。 「何が怖かった?」  腰は抱かれてるまま、顔を見合わせて訊いた。 「わから、ない。動けなくされた、から、かも」    なるほど。  由宇の腕ごと躰をぎゅうと抱きしめて動けなくしてみた。 「──今、怖い?」  由宇が直人から逃げるように二三度躰をひねる。 「──ううん。大丈夫」   「ちょっとだけ、同じところ触ってみても良い? やだったらすぐ離すから」 「──うん」    ちらっと「タクシーの中であんな悲鳴をあげられたらどうしよう」とは思ったが、事態を把握しておきたかった。    抱きしめていた腕を離して、脇腹を触ろうとする。  直人の腰に回っている由宇の手に力が入るのが解った。  躰が強張っている。  おそらく、これだ。  怖かったのは。  怯えさせないよう、優しく指をおいた。 「──んっ、ゃ」 「うん、ごめん、もう離すね」  触れたときと同じようにそっと離した。  何でもない振りをしたけど内心ではかなり吃驚(びっくり)した。  一瞬だったが甘ったるくて女子の喘ぎ声かと思った。    あの場で、悲鳴で済んだのは幸いだった。  こんなの聞かれたら揶揄(からか)われるに決まってる。もしくは変な空気になりそうだ。  無意識的にはそれを解っていて怖がったのだろう。    由宇も自分の反応に驚いたようで下を向いて真っ赤になって固まっている。  もう一度背中に腕を回して抱きしめた。 「ごめんね。過剰に反応しちゃいそうで、いやだったんだね──人前で怖い思いしたね。今度から似たようなことがあればすぐ助けるから大丈夫だよ」    思い出させてしまったのか、由宇はひとしきり泣いたあと「類に会いたい」と、ぽつりと言った。   「ずっと避けられてる気がする。俺、類に何かしたのかな」    由宇は何にも悪くないよ、と言ってあげたいが、本当の理由は隠さなくてはならないのでむずかしい。    ──言っては駄目だよ。    類が会いたがらない理由を知っている。  でもそれを由宇に言うわけにはいかない。  倍の報酬は、口止め料であり世話料だ。    先月、少し体調が良かったのか、ちらりと唯を見かけた。  カーディガンとロングスカートで隠していたが、手首も足首も思わず二度見するくらい細かった。    由宇には見せられない──と思う。類も多分、同じことを考えている。    直人が黙ってしまったので由宇はまた言う。 「俺、類に嫌われたのかな」    あれだけ頼って甘えいてた相手から、理由もわからず距離を置かれて不安定になっている。    もう今回は自分一人でフォローは無理だ。  類とだけでも会えないだろうか。  罰ゲームの件は、本人が恥ずかしくて知られたくないかもしれないし──直接会って、言いたかったら言えば良い。   直人はポケットから携帯を引き出し、類に連絡を入れた。    ※ ※ ※    タクシーが吉祥寺にあるスタジオの前に止まると類が待っていた。  由宇は一目散に走っていって飛びつく。    直人は邪魔しないように手だけ振って二人と別れた。  視線が合ったのは類とだけで、由宇は類が目に入ってから、もう周りなんて見えていないようだった。    タクシーの運転手に改めて自宅を告げる。    ダンス教室はこのビルから来月移転する。最後だと思って見えなくなるまで眺めた。  駅近で広くなるし良いことなのだが長年通ったので少し寂しい。    結局、秋には、その移転先の新しくできた商業ビルで、由宇と唯がばったり再会してしまう。    ──言っては駄目だよ。  言ってしまったら戻らない。    そこでやっと直人は板挟みから解放されることになる。    了  ※ ※ ※  引用元  曲名:Humpty Dumpty  作詞:不明  出版:1797年
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