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「大丈夫か?」
男性の声にそろそろと俺は起き上がった。
中年の男性が俺を覗き込んでいる。
「く、熊が」
「この山には熊はいねえ」
かさばった茶色のベスト。あなたを熊と勘違いしたとは言えない。
「す、すみません。ちょっと、パニックになっていたようです」
それより、この辺鄙な道で出会う中年男性。ベスト以外はきちんとしたシャツとズボン。そして、何より、美津子に似た垂れ目。
「み、美津子さんのお父さんですね。初めまして」
それが初対面だった。
タクシーの運転手は気になって、美津子の家に電話したらしい。それでお義父さんが迎えにきたのだが、近道を通ってきたため、あんなふうに木の間から出現したらしい。
俺はボロボロだった。マメが潰れて足を引きずっているし、靴を脱いだら、靴下には血がにじんでいた。汗をかいて、髪も顔もシャツもベタベタ。土産の紙袋には土がついていた。
それでも、「娘さんと結婚させてください」は成功した。
「美津子、愛してる」の叫びを聞かれていたのだ。恥ずかしいが本気で愛しているのがよくわかってもらえたらしい。
そして、それから、ずっと、何かあるたびに「あの時は」と言われ続けてきた。
もちろん、美乃も小さい頃から聞かされて育っている。
お義父さんを熊と間違えた話は脚色され、熊に襲われたところをお義父さんが助けたことになっているが。
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