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横たわるお姫さまを家来たちが悲しそうに取り囲んでいると、偶然通りかかった王子様が、その様子に気づくやいなや、急いで駆け寄りお姫様の傍らに膝をつきました。
そして施されたのは、心肺蘇生法でした。
王子様は、胸骨をリズムよく数十回、押しては戻すを繰り返しました。口から息を吹き込んでは再び胸骨を圧迫するという動作をひたすらに繰り返します。
するとどうでしょう。お姫さまは息を吹き返し、目を覚ました。
――ああ、王子様のキスって人工呼吸なんだ。だからお姫様は生き返ったんだ。
それがキスをした理由なんだ。
気がつくと、そこは病院のベッドの上だった。
白い天井に蛍光灯とそこからぐるりとあたしを囲むように下がる淡いピンクのカーテンが目に入った。そして同時に、消毒液の独特の匂いが鼻腔を刺激した。
「陽葵……! 良かった、目が覚めたのね」
奈々が心配そうにあたしを覗き込む。
「奈々」
「もお! すごくすごくすごく心配したよ!」
「あたし……?」
「救急車で運ばれたの! 忘れものをしてカフェに戻ったら救急車が停まってて、陽葵が運ばれていくんだもん。びっくりしちゃった。でも、ほんと無事で良かった」
奈々があたしの手を優しく握った。少しずつ朧気に記憶が戻ってくると、目頭が熱くなる。
「あ、あたし、死ぬと思って――」
奈々の目にも涙が溜まっていって、あたしの手を握る手のひらに力が籠もる。
「あのカフェにね、偶然居合わせたここの病院の先生が助けてくれたって。あのパニック状態の店内で、冷静にすぐに対応してくれたから大事に至らなかったのよ」
「そう、なの……?」
「後で様子を見に来るって言ってたから、ちゃんとお礼言わなきゃね」
「……うん」
「それから、ご両親にも連絡してあるから、もうすぐ着くと思うよ」
「ありがとう。奈子ちゃんは?」
「旦那に迎えに行ってもらったから大丈夫」
「そっか」
もう、あたしの中から湧き上がってくる感情は感謝しかなくて、この気持ちをどう表現したら良いのか考えを巡らせていると、キュッキュッと足音が近づいてきた。
「高橋さん、ご気分はどうですかー。カーテン開けますよー」
シャッと勢いよくカーテンを開けて入ってきたのは、白衣を着た恰幅の良い中年男性だ。短髪に無精ヒゲを生やしていて、掛けたメガネの奥からにこやかに私を覗き込んできた。
「よかった、顔色はいいですね。すぐに気道を塞いでいたパンケーキは直ぐに除去できたので体や脳に異常は見られませんが、念の為一日入院して病院で様子をみておきましょうね」
「……」
「先生、陽葵を助けていただいてありがとうございました」
「いやあ、実を言うと、僕はあのカフェのカウンター席で隣に座っていた者でして。もの凄い勢いでパンケーキを口の中へ押し込まれていたから、気になって様子を見てたんですよ。そしたら案の定で。なんて言ったらいいのかな、心の準備はできていた、と言いますか」
ヘラヘラと笑う彼に、あたしは息を呑む。
「……ほら、陽葵もちゃんとお礼を……」
「……」
「陽葵?」
「高橋さん? 大丈夫ですか? 脈が速いですね。どこか痛かったり、気分が悪かったりしてませんか」
「……は、はい……」
あたしの様子を見ていた奈々が「あちゃー」と頭を抱えたことはなんとなく気がついていたけれど、当のあたしは心拍数が上がってしまって、それどころではなかった。
「……先生」
「はい」
「……、してください」
「――はいっ?」
あたしは呼吸を整えてもう一度言葉を紡ぐ。
「結婚、してください」
「ええ? ええと、高橋さん?」
「すみません、先生。でも陽葵は本気です」
奈々が申し訳なさそうに先生に頭を下げると、先生は「ぷぶっ」と吹きだして笑った。
「もしかして、僕のこと運命の王子様に見えてます?」
「先生私たちの会話やっぱり聞いてたんですね」
「“いい歳してお姫様とか王子様に憧れる痛いアラサー女”でしたっけ。すみません、面白くてつい聞いてしまいました」
ぼんやり二人の会話を聞きながら顔が熱くなっていくのがわかる。
「先生! なら話しが早いです!」
奈々がダメ押しを試みる。
「ぷぶっ。でも腹部突き上げ法で異物除去出来たので、人工呼吸まではやってませんよ」
「えっ」
先生の台詞に思わず大きな声が出てしまった。
先生はきちんとあたしに向かい合って、きちんと目を見てくれた。
「なのですみません、まずもって僕は王子様ではありませんし、王子様のキスで目覚めさせてあげてもいません」
いつもなら、じゃあ運命の相手じゃないね、とすぐに気持ちは冷めていたはずなのに、今回は何故だか気持ちは変わらなかった。
「じゃああたし、もう一回寝るんで、目覚めのキスをお願いします」
「ちょっ! 陽葵!?」
「ぷぶーっ!」
ほら。笑い方は独特だし、笑う度にお腹のお肉が揺れているし、たぶん、パニックでカオスな状況の中で吐瀉物を見られてるし、なのに目覚めて直ぐに求婚するようなはしたない変な女だし、おとぎ話のような感動的な物語のカケラも無いのに。
だけど、あたしはこの人とずっと一緒にいる未来を描いてしまった。
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