妻の誕生日を忘れた日

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「お父さん、天国でお母さんとうまくやってるかねぇ」  俊蔵の娘・真希は、母・順子の写真の横に父の写真を並べ、水を満たしたコップに仏花をさしながら、夫の良二に呟いた。  父は母が亡くなってからというもの、急速に衰弱してしまった。  程なくして認知症を発症し、あらゆることを徐々に忘れていった。  父は、母を失った日から独りぼっちになったのだ。  母がいたときは明るい父親だっただけに、孤独な父がどんどん弱っていく姿は、涙なしでは見ることができないほど、真希は辛かった。  認知症が進み、自分が好きだった盆栽の手入れも忘れ、周囲の誰のことも分からなくなった。  それにも関わらず、父が忘れないことが一つだけあった。  母・順子の誕生日だ。  3月ごろから徐々に、俊蔵は家族の目を巧みに盗んでは家を出ていき、近くの商店街で捕獲されることが増えていった。なんでこんなに商店街に行きたいんだろうと不思議に思ったが、7月も半ばのある日、やっとその理由が判明した。  いつものように発見先の商店から連絡をもらい、店先で店主にお礼と謝罪をした。  店主は人のいい笑顔で、がはがは笑いながら、真希にこう言ったのだった。 「記憶がなくなっても、順子ちゃんの誕生日プレゼントは忘れないんだねぇ。去年と同じように、今年もちりめんのポーチの前でずっと立っていたんだよ。まぁ、俊さんと順子ちゃんには世話になったし、うちならいつでも来ていいから、あんたも気にするんじゃないよ」    納得のいく品を見つけたのだろう、8月半ばに行った徘徊先で、淡い桜色のハンカチを、父は掴んで離そうとしなかった。その様子を見た真希は、良二に父を頼み、父には見えないところで会計を済ませた。  その日から、父の脱走は止んだ。  9月6日午後6時半。昼寝をしていた父に夕飯を食べさせるために、父の寝所の襖を軽く叩く。明日は母の誕生日だから、予約したケーキを取りに行かないといけないなと、ぼんやり思いながら返事を待ったが、待てども物音ひとつ聞こえない。音に敏感な父が、全く反応しないのはおかしい。  入るよ、と言って襖を開ける。  明かりをつけると、眼前の机には、あの日買ったハンカチが置かれていた。そして、ベッドには、微動だにしない父が横たわっていた。 「…お父さん?」  呼びかけても、肩を叩いても、返事はなかった。パニックになった真希のそばに駆けつけた良二が、急いで救急車を呼び、父は病院に運ばれた。  父は、母が亡くなったことを忘れて、生きている母に誕生日プレゼントを渡すつもりだったのだろう。母の誕生日である9月7日までは昏睡状態が続き、生きながらえていた。  しかし、9月8日に日付が変わってすぐ、この世から去った。  母が亡くなってから1年も経っていなかった。
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