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田中俊蔵は自分の過ちに混乱した。
そう、妻の順子の誕生日を忘れたのだ。
毎年半年前からプレゼント選びを開始し、入念に準備をしている。もちろん今年もそうであった。
その私が、妻の誕生日を忘れたとはどういうことか。
デジタル時計に表示されている日付を確認する。
今日は確かに9月8日である。順子の誕生日は9月7日であり、終わってしまっている。
おかしい。昨日は9月6日だったはずだ。それこそ何度もデジタル時計で誕生日前日であることを確認して、気が早いとわかりつつも、プレゼントの準備だってしたのだから。
どうもデジタル時計を信用できない。かといって、これ以外に確かめるすべはない。
ふと机上を見ると、さらに恐ろしい事実に出くわした。
誕生日プレゼントがないのだ。
順子に買ったハンカチを机上に置いたはずだが、どこにもない。
もしかすると、昨日順子にちゃんとプレゼントを渡したけれども、頭を強打したのか記憶消去薬でも飲まされたのかなんなのか、誕生日丸一日の記憶をなくしたということなのだろうか。
いいや、そんなバカなことがあるはずがない。
ひとまずハンカチを探そう。あれさえあれば、順子に遅れたことを謝って、プレゼントを渡すことができる。
そう思った俊蔵は、ハンカチを探そうと台所に向おうとする。
そのとき、ふと、視界の左端に映った居間に違和感を覚えた。
仏壇がある。
仏壇には、俊蔵が四半世紀以上、見惚れた笑顔があった。
どうして、写真があんなところに。
仏壇まで歩み寄り、何度も自分の視覚を否定する。
しかし、写真に映った笑みは、間違いなく順子のものであった。
沸々と、怒りが込み上がってくる。
なんてふざけた冗談を。順子にこんなことをした奴は誰だ。
写真立てをどかそうと手をかけると、一瞬、頭の中に映像が流れる。
白い壁の病室、規則正しく落ちる点滴、痩せて骨に張り付いた首筋、開かなくなった目、無常を告げるモニター音—。
その途端、急に呼吸が浅くなり、視界が暗くなっていった。
今のは、なんだ。
ふらふらと後ろへよろめき、畳に尻をつく。
残夏に似合わぬ風鈴の音が、遠くでチリンと聴こえる。毎年7月から8月にかけて風鈴を吊るす順子だが、今年の夏は外し忘れたのだろうか。
順子は、どこにいる。
そういえば、最後に順子を見たのはいつだ。
先程まで誕生日プレゼントを渡すつもりでいたのに、渡せない別の可能性に気づき、思考が回る。
順子が、最後にこの家にいたのは、いつだったか。今の記憶は、いつ記憶だったか。
嘘だ。
順子がここにもういないだなんて、そんなことは信じたくない。
嘘だ嘘だ嘘だ—。
「俊さん」
何光年も経ったかのように思われた時間が、背中からかけられた声によって終わりを迎えた。
自分の直面した悲劇を否定したくて、安心したくて、ずっと待ち望んでいた声を求めた。
「順子」
振り返ると、そこには若草色のワンピースを纏った順子がいた。順子が欲しいと言っていたと、義理の妹から聞きつけて、結婚後最初の誕生日にプレゼントしたものだ。
「順子、ごめんな、今年も誕生日プレゼントを用意したはずなんだけれど、見つからなくてな、加えて1日遅れちまって、」
目をまんまるにしながら俊蔵を見つめる順子は、くすくすと笑い出す。
「あら、それじゃあ左手に持っている女性物のハンカチは何かしら」
パッと左手を見ると、俊蔵が順子に似合いそうだと選んだピンクのハンカチがあった。少し恥ずかしさと照れ臭さがあったが、これで今年も誕生日プレゼントを渡すことができる。
毎年ありがとうございますと、可愛らしい笑顔を浮かべながら受け取った順子は、俊蔵に向かって言う。
「長い間お疲れ様でした。一緒にいきましょうか」
順子に差し出された右手を、そっと自分の左手で包んだ。無意識に、離さないようにと、しっかり握ってしまう。
ずっと同じ家にいたのに、長い間離れてしまっていたような感覚だった。
もう二度と、離れたくなかった。
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