Bellum Omnium Contra Omnes

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ちょうどクッションに座りながら本をめくっていた時だった。 テーブルの端に置いたスマートフォンが異様な音を出し始めた。 着信の音じゃない。 私はぎょっとして、端末を手に取り画面を確認した…… ホーム画面の通知には冒頭には三角の警告マークこそあったが、その後には訳の分からない文字が並んでいた。 エラーなのか文字化けなのか、とにかく読もうとしても意味をなしていない。 少し頭を働かせてみた。 緊急警報の類だ、何かは分からないのだが、大きいものが発災するような、多くの者に知らせるだけの危険が起こりうる……事前に備えさせるだけの必要性のある事態が迫っている。 ところが肝心の内容が分からない。 大きな地震ならば屋内で一旦安全を確保、揺れの具合を見極めてから行動することになる。 仮にあれが武力攻撃のアラートであって脅威の正体が弾道ミサイルならば、速やかに窓辺から離れて爆発からの被害に備えること……まあ可能性はほぼないし屋外からで短波放送で警報が流れる事態なはずなので、これは違うだろう。 戸外の静かさからすれば気象災害も違う。 やはり地震だろうけれど……しばらく待っても一行に揺れが来ない。 「空振りか」 夜、彼が職場から帰ってくるのはもう少し後の筈だが、何らかのトラブルや災害になったら帰宅難民になってしまうだろう。 メッセージサービスで彼からの連絡がないかを確かめた。 最後は夕方で残業になることがポストされ、私は夜食の準備はしておくと返答、それ以後にはどちらも続報がない。 『帰りの電車 大丈夫?』 一言発信しておいたが既読の痕跡が現れない。 私はスマートフォンでSNSを見ながら、さっきの警報についての情報を探してみた。 『さっきの何 夜中いきなり 起きちゃったんだけど』 『誤報かよ』 『一体何があった』 自分と同じく、正体の判然としない警告音に疑問が噴出している様子だ。 タイムラインを遡っても、鳴り始めた時刻以降に具体的な報告は何も無かった。 ニュースサイトにも関連するような速報は挙がっていない。 しばらく探してから画面を消して閲覧を打ち切った。 ……多分、システムの誤作動による間違いだったのだろう。 何も起きた形跡がないなら結構なことだ……。 後刻、訂正やお詫びが出されてそれでおしまいなのだ。 私は自分のために紅茶を淹れようと立ち上がった。 ケトルが湯気を出し始めたタイミングで、再びスマートフォンが異音を出し始めた。 「またかよ」 コンロを切り念のための確認をするのにリビングに向かった、その瞬間、部屋が闇になった。 一瞬足を止め、暗さに目が慣れてから探るように歩いた、スマートフォンを取りに。 厭なタイミングで停電だ、何かが起こった、何が? カーテン越しのかすかな明かりが象る輪郭を頼りにテーブルに近づいた。 手に取った端末の画面に明かりが戻る。 『警報 大規模な暴動が同時多発的に発生しています 戸締りをし屋内で安全を確保してください』 混乱しながら文面を読んだ。 状況を想像しようとしたけれどうまく思い描けない。 海外ニュースでたまに見る、市街地で群衆が蜂起するような暴動が発生したということなのか。 私の住むエリア付近でそんなことが起こったっていうのか? 詳細な情報を探そうとしたが、SNSもメッセージも固まって、新規の読み込みをしない状態になったいた。 屋外の遠くの音を探るように暫く私は耳をすませた。 ほとんど無音の中、遠く人間の悲鳴が聴こえたような気がした。 窓辺まで行き、カーテンの縁をわずかに、サッシを薄く開いた。 ぬるい夜気の中、仄暗い夜空の下ですっかりと影になった下界が見える。 マンションの3階、わずかに一戸建て住宅よりも眼が高みにある中で、夜にまるで光源のない街並みを久しぶりに見た気がした。 一帯全てが停電になり、どの窓にも明かりがない。 明け方のわずかの瞬間にだけ現れる、街灯の明かりが消える瞬間ですら空が白んでくる時刻なのだから、この暗さは新鮮だが…… 遠くに、かすかにともしびが見えた。 蝋燭の炎が揺らめくような、電気ではない明かり。 じっと見ていて気がついた。 そこに火事が生まれたのだ。 私はさらに見ていて、各所に火の手が上がっているのに気がついた。 一箇所じゃない、火事が複数起こっている。 市内だ、それなのに防災無線の発信がない。 管内の消防車の急行している気配がまるでないのだ。 普通じゃない。 ……警告の文は「暴動」となっていたけれどこれはテロ攻撃の類なんじゃないか。 まさか今、この日本の中で同時多発テロが起きたというのか。 彼が帰宅しない、今どうしてるのか。 強烈な不安の中、眼下の路上の暗がりにかすかに動く影が分かった。 判然としない状況で家の中にいたたまれずに外に出た近所の住人だろうか。 だが動きが妙だ。 様子を見に出ているという仕草がない。 泥酔しているのか負傷しているのか、朦朧としたふらついたような動きだ。 時々立ち止まっては人形のように動かなくなる。 目を映すと、人影は一つではなかった。 離れたところに一つ、また離れたところに更に一つ……どれもが身体を揺らすような、意識のはっきりしないような動きをしている。 「何、あれ」 思わず口にした。 テロによる事件の発生でも何かの集団の暴動でも、のんびりと外に出てる時じゃない。 右往左往するようなパニックにはなっていないのが妙だった。 それよりも……政府からの警告情報ははっきりとしたものではなかったのか。 都内在住者に配られた防災情報冊子にはいくつかのシチュエーションが想定されていた。 地震災害、気候災害、テロ・武力攻撃、感染症、…… そういえば、害獣に関する項目は無かった筈だ。 防災の管轄ではないのだろうか。 防災無線では、この頃都市部にも出てくるようになった大型の野生獣などは警報を出していた。 熊の目撃情報などは住民に向けて速報されていた。 手に握ったままだったスマートフォンがブルッと振動した。 メッセージが一瞬だけ復帰し、最終の投稿を読み込んでいた。 彼のアカウントから……一時間前の発信が届いていた。 『大変なコトになってる』 『ぜったい外に出ないで』 『必ず帰るから』 『今 外は死人が歩いて』 続きは無かった。 恐ろしいことに、どうやら死傷者が多く出ているのは確かなようだ。 きっと彼は大丈夫、バッテリーか通信の接続が途切れてしまっただけなのだ、きっと無事に帰ってくる、と私は自分に言い聞かせた。 窓から離れて暗い部屋の中で電気と彼が戻るのを待っていた。 電気は通じず、彼もまだ帰らない。 遠くで人間の悲鳴が聴こえてくる気がするのだけど、それが本物か分からない。 大きな地震の後には、何もない筈なのに揺れをかんじてしまう、そんな気分の状態に似ている気がする。 私はそのままずっと待っていた。 どれくらいの時間が過ぎたのか、玄関で音がした。 彼が帰ってきた、と私は思った。 ノブが回される音がする……勿論錠がかけてあるのだから開かない。 立ち上がって錠を解きに玄関に向かった。 ……彼はなぜ鍵を使わないのかしら。 扉の向こうに声をかけようとして、私はできなかった。 ガタガタ、とノブが回されている。 勿論、開かない。 鍵を無くしたのかな、それなら私の名前を呼べばいいのに…… そう、それだけでいいのだ、私の名前を。 それくらい簡単にできるでしょう? 人間ならば。
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