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白い個室の病室に声が響いた。
「黙れ! クソ!」
笹山が一人、病室で怒鳴る。
「何なんだ! これは!」
頭を抱えて、耳を塞ぐ。ただ耳に届くのは右手だけで左手はだらりと下がったままだ。
もう左手は動かなくなっていた。
「左手の怪我!? 何の話をしてる! 時間がない? キットがない? 何のことだ! 誰だ! お前ら! 全部お前らのせいか!」
ベッドから転がり落ち、血走った目で病室を見回す。
探る視線が捉えるのは、しかし、無人の白い病室だけだ。
「俺を無視するな! 何の話をしている! 答えろ!」
叫ぶ声はしかし、静かに病室へ吸い込まれていくだけだった。
荒い息を吐き、笹山は改めて部屋を見渡す。
「ここは、ダメだ。ここに来てからだ。そうだ。頭痛も、左手も、幻聴も、吐き気も全部、全部!」
呪詛のような言葉を吐き出して、ベッド脇のナースコールに飛びつく。
押してしばらく待てば、すぐに看護師がやって来る。
備えの無い相手を突き飛ばし、病室の外へと笹山は飛び出す。
やみくもに病院内を駆けて、非常階段へ続く扉を使える右手だけで不器用に開いた。
目に飛び込んでくるのは、変哲もない街並み。
白い病室では判断しきれなかった事実を、笹山は理解する。
世界は正常だ。
その理解が、限界に至りパニックの中へ沈んでいたものを掬い上げる。
手中に戻した理性。だが理性こそが、笹山の心を突き崩してくる。
「なら--動かないこの左手は何だ。--幻聴は、俺は、異常か?」
ぼそりと言葉を零し、へたり込む。
そんな笹山の耳が、音を捉えた。
一つ下の階の非常階段の扉が開いた音。続いて女の話声が聞こえる。
幻聴ではない、確かな世界の音だと笹山は信じる。
「何が見つけたら抑えろ、よね。暴れる患者の相手とか無理に決まってんじゃん。絡んだら自傷罪待ったなし」
「木場さんでしょ、担当。迂闊すぎ、笹山、かなりキテたじゃん。巻き添えはゴメンだって」
「それね。笹山を病院送りにした人、田村だっけ? 実際ダメだったんでしょ? この仕事してると信憑性ありすぎだよね」
「怪我が原因の変死。冗談だと思ってたけど、マジなんだもんなー」
「やめたい、けど、給料いいんだよね」
「ま、そういう仕事だから。適度にやるのがいいでしょ」
階下から漏れ聞こえる声が、仕事の不満を垂れ流していく。
笹山がポツリと呟く。
「田村が、死んだ?」
現実味の無い言葉を呟く。
いや、それよりも重要なことを看護師たちは言っていた。
「怪我が、原因の変死……」
今の不調、幻聴の原因が田村に負わされた怪我だとしたら?
震える足で笹山が立ち上がり、よろめきながら階段を下りる。
視界が何かを警告するように赤く染まっていく。
「……おい!」
階下の看護師たちを真っ赤な視界に収めて叫んだその時--笹山の視界は暗転した。
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