雨の降りやまぬ村

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 その水滴は窓ガラスに次々と現れ、大小さまざまな形を作りながら、他の滴と重なり合い、さらに大きな筋となって下へと流れていく。窓の外では白い霧に負けじと紫陽花が色鮮やかさを主張していた。  半袖のポロシャツに半ズボン。アオは活発そうな四歳の男の子。少し高い位置にある窓下に椅子を置き、立ち膝でガラスに伝う雨粒を数えるのが日々の日課。 「ひとーつ、ふたーつ」 落ちる水滴を指折り数えるアオ。  祐介は壁の日めくりカレンダーを見ながら溜め息を吐くと振り返る。 「アオ、今日はママの命日だよ」 アオの肩が僅かに上下して黒髪が襟足で揺れた。  四年前の六月二十二日、十八時一分。雨が続いた山間の小さな村に未曾有の災害が襲った。大規模な土砂崩れは村の半分を飲み込み、救助による奇跡的生還者十二名、犠牲者二十四人に及ぶ悲劇の傷跡を残した。 (ママは六月二十二日に雨雲になったんだよ) 四年前、まだ赤ちゃんだったアオに祐介はそう教えて育ててきた。  四年に一度の潤年、二月二十九日がアオの本当の誕生日。アオとママは僅か四ヶ月間しか一緒にいられなかったことになる。毎年の六月二十二日、祐介はアオにママのことを語った。 「ママは村一番の美人だったんだよ。そして庭に咲く紫陽花みたいに優しい女性だった」 二十二で止まった日めくりカレンダーに目を向けるアオ。 「パパはママが好きだった?」 「うん、すごーく好きだった」  二人きりの生活。こじんまりした平屋の古民家は霧でスッポリと覆われ小雨が降り続いている。  鼓膜を撫でる雨音はアオの子守唄。ソファーに横たわり自然と瞼が重くなる。次にアオが目を開いたのは祐介の揺すりだった。 「アオ、起きて!」  睫毛を上げたアオの視界に映ったのは黒縁メガネのパパ。村の寄り合いから帰った祐介は興奮していた。 「村の長老の娘が『今年は閏年だから今日だけ死者が帰ってくる』と言ったんだよ!」  土砂に飲まれ亡くなった長老は神社の巫女だった。その霊力は娘にも引き継がれている。ぼんやりしたアオの眼が大きくなった。 「本当?じゃあ、ママも帰ってくるの?」 「そうだよ、アオ。だから、村の入り口にある大銀杏の木まで迎えに行こう」  祐介は雨カッパをアオに着せ、自分は傘を広げて村の入り口へと歩き出した。 (ママに会える!)空は厚い灰色雲に覆われ雨は相変わらず降り続けていたが、アオの心は期待でいっぱいだった。  大銀杏の木に到着すると、そこには災害による死者との再会を喜ぶ村人達がいた。白髪の長老と娘も抱き合って泣いている。その中にキョロキョロと二人を探す女性がいた。やがて目の動きが止まると彼女の表情が笑顔に変わる。 「ただいま」知美の声は、傘を投げ捨て抱きしめた祐介の胸の中からくぐもってアオに聞こえた。 「知美、会いたかった!」 「私も」 「アオ、アオなのね」 知美はすぐに膝を落としてアオを抱きしめる。 「大きくなったね。今日はアオのお誕生日、お家に帰って一緒に祝おう」 「僕の誕生日は二月二十九日、今日は違うよ」 「えっ?そうだった?」 祐介は苦笑した。 「ママは帰ってきたばかりで頭が混乱してるらしい」 (これがママ)ママの匂いは甘かった。混じって雨と庭に咲く紫陽花の匂いもした。アオは知美の首の後ろに両腕を回す。 「ママ!」 「私の可愛いアオ、どんなに会いたかったか」 「うっ、うぅ……」と、最小限に嗚咽を殺して涙する知美。そんな二人を祐介は丸ごと包むように抱きしめた。 「さあ、三人で家に帰ろう」  祐介と知美は相合傘。アオは青いカッパに長靴で、ワザと水溜りにジャンプ、水飛沫を高く上げてスキップで歩く。前方には、村のお友達、美咲がパパに肩車されてハシャいでいた。横を歩くママも幸せそうだ。 「美咲ちゃん、パパが帰ってきて良かったね!」  アオが大きく叫ぶと、ツインテールの美咲は振り向いてニッコリ笑う。 「アオ君もママが帰ってきて良かったね」 「うん!」  美咲のママが振り返り頭を下げる。祐介と知美も頭を下げ返した。  玄関扉は、ちょっと渋い木枠のスリガラス。アオの力では開かない。祐介が力を入れて扉をスライドすると、知美は瞳を輝かせた。 「懐かしい匂いがする」 知美の肩を抱く祐介。 「何もかも変わらない。あの頃と一緒だよ」  リビングに足を進めると、知美は何をかもを懐かしむように歩き回る。アオは、そんな知美をじっと眺めた。亜麻色のセミロングと白地に紫陽花模様のワンピース。 (ママはパパの言う通り、紫陽花みたいに綺麗)と思うアオ。 知美は日めくりカレンダーの前で足を止めた。 「六月二十二日……」 「そうだよ」 祐介はアオを抱き上げ瞳を細める。 「四年前の今日、土砂崩れで君を亡くしてから僕らの時間は雨の中で止まったままだ」 「四年前……」 知美は、ぐっと奥歯を噛んでから笑顔で振り向いた。 「本当に、アナタは何も変わらない。床屋に行けって言ってたのにボサボサに伸びた黒髪も無精髭も、その白いポロシャツと灰色のスラックス、アナタのお気に入りだったわよね?」 「あはっ」 頬を緩めて下を向く祐介。 「懐かしいな、いつも君に同じ服ばっか着てるって叱られてたよね。床屋は今度、絶対に行く。髭も剃る」 「ふふっ」 口元に手をあて知美が笑う。 「でもアオは変わったわ。赤ちゃんだったのにこんなに立派に成長して。でも、すぐに分かった。アオだって」 「だよね」と祐介は頷いた。 「だって、君はアオのママ。分からないはずはないんだよ」  その後、祐介と知美、アオにとって楽しい時間が流れた。アオがギコちなかったのは最初だけ。慣れてくると知美に抱きつき離れないようになった。会話の途中、ふっと壁の丸時計に祐介は視線を上げた。 「もう、午後かぁ〜」 「お腹、空いたでしょ」  知美はソファーから立ち上がりカウンター向こうのキッチンに向かう。 「ママ、待って!」  アオは白いハイソックスを履いた両足を床に下ろし、パタパタと知美の後を追いかけた。足に巻きつき甘えるアオに、知美は優しく言った。その声はフワリとした綿菓子に似ている。 「ちょっとだけ向こうのソファーでパパと待っててね」 「ママが料理作るの?」 「そうだよ。アオは何が食べたい?」 「んー、分かんない」 「そっか。分かんないよね」 アオの頭を撫でる知美。彼女は悲し気に呟いた。 「ごめんね、ママの料理を食べさせてあげられなくて」 「ママ?」  知美を見上げるアオを背後から伸びてきた手が抱き上げる。 「こら、ママを悲しませたらダメだよ。あっちで大人しく待っていよう」  祐介はアオを抱いてリビングのソファーに座らせると、床に膝をついてこう言った。 「いいかいアオ、ママとは今日の六時までしかいられない」 「六時?」 「そう」  時計に人差し指を差す祐介。 「長い針が12、短い針が6になったらママとお別れしなきゃいけないんだ。だから、それまで楽しくお喋りしようね」  長い針が12、短い針が6。時計を見上げてからアオは「うん」と頷く。  間もなくダイニングテーブルに料理が並ぶと祐介は両目を見開いた。 「これ、あの日の夕食……」 「うん、ハンバーグとポテトサラダにホウレン草のお浸し、あの日、土砂崩れの直前まで私達はこの夕食を食べてたよね」  椅子に座ったアオの前にホカホカの白いご飯と、ワカメと豆腐の味噌汁が置かれた。 「うわあーっ!美味しそう!」 「そう……だったよね。あの日、僕らは何気ない会話をしながら、この夕食を……」  眼鏡を外し、下睫毛に溜まった涙を指で拭う祐介。彼は着席し、笑顔を知美に向けてから箸を持った。 「いっ、いただきます」  まだ上手に箸が持てないアオ。知美はそれに気づくと、フォークとスプーンを彼に手渡しハンバーグを一口サイズに切り分ける。アオは夢中でママの料理を口に運んだ。 「ふふっ、アオったら」 知美はテーブルに頬杖をつきアオを眺めた。 「そんなに慌てて食べなくてもママの料理は逃げたりしないよ」 箸を置き知美に顔を向ける祐介。 「知美、その手首の包帯……」 「ああ、これ?」 知美は慌てて頬杖を解くとテーブル下に腕を下げる。 「転んで怪我しちゃったの。おっちょこちょいだから私」 「そうか……」  祐介は再び箸を持つ。アオは咀嚼しながら隣に座る知美を見た。 「ママは食べないの?」 「ママは、アナタ達を見てるだけでお腹がいっぱいになるんだよ」  それは嘘だ。とアオは思った。 (ママは幽霊だからご飯を食べられないんだ)  食事が終わると、三人でトランプをした。初めてのババ抜きはアオにとって凄く楽しい遊びだった。負けて泣き出すアオにオロオロする祐介と知美。次のゲームからは、なるべくアオが勝つように二人は頑張った。  トランプが終わると、アオは知美の膝枕で機関銃のように喋った。主に友達の美咲のことだ。 「アオは美咲ちゃんが好きなのかもね」  テーブルを挟んでコソッと囁き合う祐介と知美。アオが聞いた。 「ママとパパはどこで会ったの?」 対面ソファーに座り和かに答える祐介。 「パパとママは高校って場所で出会ったんだよ」 「高校?」 「うん、アオがもう少し大きくなったら行く場所。パパとママは同じクラスだったんだよ」 「同じクラス?」 「そう、学校って場所にはクラスがあるんだよ」 「学校、クラス」 うーんと首を捻るアオ。まだ分からないのも当たり前だ。 「僕と美咲ちゃんはお友達だよ。パパとママもお友達?」 「うん、ママはパパを友達だと思ってた。でもパパは違った」 「どんなふうに違うの?」 「パパはずっとママが好きだったんだよ。片想いってヤツ。好きは友達より上なんだ」 「アナタったら」 頬を赤らめる知美。 「今だから言うけど、高三でアナタに告白される前から好きでした。片想いじゃありませんよ」 「えっ?」 祐介の頬も赤く染まる。 「そんなこと今まで一度も……」 「言うタイミングを逃しただけよ」 「いや、言ってくれよ!もっと前に付き合えたじゃないか!」 「言ったら私から告白することになっちゃうじゃない。女のプライドで待ってたんですよ。アナタこそ、高三まで伸ばさず、もっと前に告白してくれたら良かったのに」  ちょっとした口論をした後、二人は「まあ、結婚したからいっかぁ〜」と微笑み合う。  アオは二人の間に立ってケタケタ笑った。知美はソファーから床に落ち、アオの肩を抱き寄せ頬っぺたに自分の頬を重ね合わせる。 「アナタと結婚できたおかげで、こんな愛しい天使と出会えた」 「それは僕も一緒」  立ち上がり二人を抱きしめる祐介。  どんなに願っても秒針は止まらない。そんな三人に別れの時間は刻々と近づいていた。  十七時五十分。三人は家を出て大銀杏の木まで、ぬかるんだ道を歩く。左右からアオに繋がれた夫婦の手は震えていた。  空から降り注ぐ雨は、カッパと傘という防御を忘れた三人をびしょ濡れにする。毛先から落ちる水滴をそのままに、三人は大木の下で抱き合った。  涙に濡れているのは三人だけではない。そこかしこから悲痛な嗚咽が聞こえた。 「パパ、行っちゃヤダ!」  美咲もパパに抱きしめられ泣いている。村人にとって、それはあまりに辛すぎる二度目の別れだった。 長老は娘を抱きながら涙声を霧の中に放つ。 「村の皆を頼んだぞ」 「ママ、行かないで」 アオは涙でぐしゃぐしゃな顔を知美に上げた。  愛する我が子の後ろ髪を優しく撫でる知美。 「泣かないでアオ、また四年後の今日にきっと会えるから」 「知美!」 祐介は妻を強く抱きしめる。アオの前では言えないが、長老の娘の話だと四年後の再会は絶対ではない。  なぜなら生者の心の念が「会いたいの異空間」を実現させるからだ。生きている人間には時間という死者にとっての残酷がある。時間は魔法。いつしか生きて進む者の心にアルバムという名の保管場所をつくり、その中に死者の存在を置き去りにしてしまう。【懐かしい思い出】その言葉と共に……。 「絶対に思い出になどしない!」 「私も同じだよ」  固く四年後の閏年、六月二十二日を誓い合う祐介と知美。  次々と霧の向こうへ死者達が歩いて行く。後ろ髪を引かれながら知美も一歩を踏み出した。 「ママ!」 「知美!」  知美に繋がれた愛しき手が限界まで伸びる。人差し指の先端で最後まで繋いだのは悠介の指だった。爪を長く伸ばせば良かったと知美は後悔せずにはいられない。極限まで愛する家族を感じていたかったからだ。  指と指が僅かに離れた時、その隙間に霧が忍び寄る。まるで霧は、この世とあの世を隔てる壁のように互いの姿を徐々に白く染め、存在を儚い者とし消し去った。 「ママ……」 「知美……」  とめどない涙が、この雨のように頬に降り続き止まらない。祐介とアオは知美の姿が完全に消えても、その場を動かずに手を振り続けた。  また、四年後の閏年に……。  十八時一分。魔法は消える。  霧が晴れて視界が明るくなると、知美の目前には現実が広がった。土砂崩れにより危険区域に指定され廃村になった、かつての村の跡地だ。  知美を含め、奇跡の生還を果たした者達は、取り壊され何もない更地に両手をつき泣き崩れている。 「わあああーっ!!」  絶叫し泣き叫んでいる男性は、妻と娘の美咲を亡くした。  巫女であり霊能者である長老は娘を亡くした。  そして知美は、夫である祐介と生後四ヶ月の赤子だったアオを亡くしたのだ。  あの災害さえなかったら。六月二十二日への断ち切れない深い思い。村の生還者は、ずっと苦しんで生きてきた。  この一日は、四年に一度の二月二十九日、長老が巫女の力で起こした奇跡であったのだ。  ひとしきり泣いた後、長老は涙を拭い、皆に語りかけた。 「また、四年後の今日、わたし達が望めば死者に会える。わたしも娘に会いたい。この四年間それだけを願ってきたのだから。だが実現した今、わたしは強く思う。生者の想いだけで死者を永遠とこの村に縛りつけて良いのだろうか?とな」  更に長老は目尻のシワを深め言葉を続けた。 「見たであろう?霧に囲まれた雨のやまぬ村を。この村で赤子は育ち、大人は同じ六月二十二日を繰り返しているだけ。全てわたし達、生者の強い願いがそうさせているのだ。これは罪だと思わぬか?」 長老が何を言おうとしているのか知美には分かった。日めくりカレンダーが土砂崩れの年の六月二十二日だったからだ。祐介は自分が死者だと気づかず、二十二日を四年前だと思っている。赤子だったアオも同じ。成長はするが同じ日を繰り返しているだけ。自分の強い想いが、あの村に、二十二日に二人を閉じ込めているのだ。  再び聞こえる長老のしわがれた声。 「このままでは死者が可哀想だ。わたしは、あの村の霧を払い、降り続く雨を晴らしてやりたい。繰り返す二十二日から死者を解放し昇天させてやりたいと思うている。それには死者への強い念を断ち切るしかないのだ」 (それは、夫と我が子を思い出に変えろということ。会いたいと二度と思ってはいけないということ) 「そんなこと、私にできるんだろうか……」  村の入り口にあった大銀杏の大木は土砂に流され、今は慰霊碑が建立している。  知美は慰霊碑に祐介とアオの笑顔を浮かべると、困惑の背中を向けた。  四年後。  今日も窓の外は雨。霧に煙る中、凛と咲く鮮やかな紫陽花。 「ひとつ、ふたつ」  下に流れる雨粒を数えていると後方から声がした。 「アオ、今日はママの命日だよ」 「パパ!」 アオは振り向かずに窓に指を差す。 「見て、霧がなくなってくよ!」 「えっ?」  祐介とアオは慌ててベランダのサッシを開いて庭に出た。霧が晴れ、厚く覆っていたはずの雲から一筋の光が差したのだ。 「雨がやんだ」  祐介とアオは次第に幅を広げ強くなる光に瞳を細め天を仰ぐ。眩しい。だが、その光は温かった。 頭の中に、知美の手首に巻かれた包帯が浮かぶ。祐介はアオの頭を撫でながら呟いた。 「アオ、どうやらパパは間違えていたみたいだ」  壁の日めくりカレンダーが吹く風に破られる。二十二日が新しい日付けに変わった。今日が明日への一歩を踏み出したのだ。  知美は慰霊碑の前で、四年前の約束通り祐介とアオに再会した。 『ママ!』 やんちゃそうなアオの笑顔。 『知美!』 眼鏡の奥の優しい眼差し。  心の中『ただいま』と走り寄り知美は二人を強く抱きしめた。知美を始めとする奇跡の生還者達が『会いたい』を封印し、村に降り続ける雨を止めたのだ。  胸に家族を抱き、見上げた雨上がりの空。それは千切れ雲を浮かべ七色の虹が架かる美空だった。  もう、会えなくとも、どうか、あの橋を渡り天国へ……。  解かれた包帯。痩せた手首に残る無数の深い傷跡に涙が落ちる。だが、その涙には微かに未来の匂いが滲んでいた。 「忘れないよ。絶対に……」 どんなに時が経とうと 「思い出に変わるはずなんて……ないんだよ」  アルバムにならない愛は生者の胸にある。それは、これからもずっと生き続けていくだろう。たとえそれが豪雨の中であってもだ。  笑顔で、みんな一緒に、永遠に……。  雨雲の上には必ず眩い光がある。信じて歩けば、いつか心にも雨上がりは訪れるのだから。  数年後、朝露に濡れた紫陽花からポトリと雫が落ちた。水滴は大地から芽吹いたばかりの若葉を濡らす。その姿はまるで、生まれた命に母が母乳を与えるかのようであった。      
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