第十一話

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第十一話

 何気なく過ごしている風景の中で星を見つけると秘密を共有したような嬉しさがあった。いつも使っている洗濯機のボタンの下でも瞬いていて、浬は指の腹で凹凸を読んだ。  水量は「すい」、洗いは「あら」、すすぎは 「すず」と打たれている。  なぜか点字に触れると羽場の体温を思い出し、記憶の引き出しにしまった熱が背中にじんわりと広がる。そこから手のひらの大きさや頬に触れた吐息までも蘇ってきて、浬は頭を振った。  (これじゃ勉強にならない)  先ほどから同じ行を繰り返し読んでいるだけなのに気づき、浬が本から顔をあげると隣に座っている辻がちらりとこちらに視線をやる。  「また点字?」  「なんだか楽しくなっちゃって。辻くんもやる?」  「おれはいいや」  カレーパンを一口かぶりついた辻は視線をスマートフォンに移した。珍しく講義に出席した辻はそのまま昼食を一緒にとっている。  「そういえば週末のバザー行く?」  「その日予定があるんだよね」  「前もそう言って来なかったよね」  「おれも忙しいのよ」  今週の土曜日に近くの小学校でバザーが催され、その手伝いをして欲しいと頼まれた。  普段から学童のボランティアをしていたので二つ返事をしたと西藤が言っていた。  辻はいままで活動に参加したことがない。  誘っても用事があると断られてしまい、平日でもサークル室に顔すら出さない。  それほど忙しいのになぜ入会したのか不思議だった。  「それより先週介護施設に行ったんだろ? なにやったんだ?」  「お風呂に入れたり、食事を配膳したりかな。あとは西藤さんたちがマジックを披露してたよ」  「なるほど」  辻は思案顔でうんと大きく頷き、スマートフォンに打ち込んでいた。  もしかして浬が言ったことをメモしているんじゃないかと疑惑の目が向くが、それを聞く勇気はない。  チャイムが鳴り、同時に教授が入ってきた。 前を向くと斜め右横に羽場の小さな頭が目に入った。  昼休みの間でも点訳していたようで机の上に点字盤が見えた。  けれどいつもお姉さん用に点訳している緑のファイルはなく、見たことのない黒いファイルがそばにあった。  (あんなもの持っていたかな)  図書館に寄贈するものだろうかと思ったが、その黒さは光を吸い込む闇のように暗く淀んでいて恐ろしく感じる。  浬の視線の先に気づいたのか辻が口を開く。  「おれ、羽場嫌い」  「どうして?」  二人が話しているところは見たことがなかった。 「新歓のときにちょっと話したんだけど、 馬が合いそうにないなと思って」  「もしかして揉めたの?」   図星だったようで辻の横顔が強張る。  「どうしてそんな大事なこと言ってくれなかったの?」  「別に言う必要ないだろ」  七月を過ぎてもウェルネスに入った新入生は浬と羽場、辻の三人だけだった。辻はサークルにも講義にも出席しないので羽場とは関わっていないと思っていたが、まさか自分が知らないところでいざこざがあったなんて。  「なら今週のバザーに参加して羽場くんともう一度話してみようよ。僕も間に入るし」  「だから用事があるって言ってるじゃん。それにおれは羽場と仲良くする気はない」  嫌悪感を含んだ辻の声音は浬の身体を縛りつけた。見えない鎖にぐるぐると巻かれているようで息苦しい。  「いたっ」  突然額の傷が痛みだした。視界が歪み、周りの景色が渦を巻く。ぐるぐると自分の身体が回転しているような錯覚に陥った。  瞼を閉じると暗闇の中にぽつりぽつりと光が灯る。 星のように瞬いていたものが次第に大きくなり、映像が流れ始めた。  若いころの両親だ。浬を愛おしそうに見下ろしている。 次はランドセルを背負っていてはしゃいで いる浬を見つめる両親。  中学、高校と移る。  同い年くらいの男たちの輪の中にいて、なにが可笑しいのかみんな 笑っている。  それを眺めている浬はとても虚しく、早くこんな時間が終わって欲しいと願っていた。  最後に映ったのは真っ暗な闇だった。  映像が止まるとすっと痛みは引く。目の焦点が合っていき、景色が教室に戻り、教授の声も聞こえてきた。  時間にすれば数秒しか経っていないのに、何年も経過したような不思議な感覚だった。
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