第十二話

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第十二話

 断片的だが初めて記憶を思い出した。  嫌な汗が流れてきて、べったりと額を濡らす。痛みの余韻がまだ燻り、浬は堪らず両腕を抱いた。  記憶が全部戻ってくるんじゃないか。  記憶なんて戻らなくていい。  過去は知りたくない。  たくさんの人を傷つけた『浬』なんていなくなって当然だ。  開きかけている記憶の蓋をきつく締める。一呼吸を置いて隣を見たが辻は机に突っ伏して眠っていた。  (このまま大人しくしていよう)  瞼を閉じて、痛みの余韻が引くのを待つと目の前に人が移動する気配があった。  「大丈夫か」  やさしい囁き声に顔をあげると眉を寄せた羽場の顔がちかくにあり、驚いた。羽場の固定席にはノートと鞄の荷物がある。  「顔色が悪いぞ」  「……なんでもないよ」  我ながら覇気のない声だったが精一杯の笑顔で答える。弱っている姿を見せたら呆れられてしまうのではないか。しっかりしないと自分を鼓舞するが、ずきずきとした痛みはなくならない。  「行くぞ」  浬が返事をするより早く腕を取られ、医務室に連れて行ってくれた。常勤の養護教諭はいないらしく、運がいい のか利用者は誰もいない。  羽場は空いているベッドに浬を寝かせてくれた。  「しばらく寝てろ」  「ありがとう」  「朝から具合い悪かったのか?」  「講義を受けるまでは大丈夫だったんだ ど 」  羽場はパイプ椅子に浬の鞄を置いた。  「必要なものはあるか?」  投げかけられる言葉に耳を疑った。そんな風に労わられると甘えたくなってしまう。 過去の片鱗に触れ、気が滅入っていたところにやさしくされたせいかもしれない。  「手、繋いでもいい?」  自分で言っておきながら恥ずかしくなって布団の中に顔を埋めた。  (僕はなにを言ってるんだ! いまのはさすがに引かれる)  そろりと覗くと案の定羽場の表情は強ばっていた。  「ごめん、やっぱなーー」  浬が言い終わる前に羽場の手が布団の隙間を縫 い、指を絡めてきた。大きな手のひらはとても温かい。羽場の体温は高く、湯せんされたチョコレートのように溶けてしまいそうだ。  「手、温かい」  素直な感想に羽場は目を丸くした。薄い唇が開いたり閉じたりを繰り返し、なんと返答しようか迷っているようだった。  少しずつ羽場のことがわかってきた。やさしくてとても不器用。ぶっきらぼうで損をする性格だ。  でも本当はこの手のひらのように温かく情が厚い人。  「顔、赤いぞ」  羽場は顔を近づけて額をくっつけた。間近に迫る黒曜石の瞳に驚いた顔をした自分が映る。  「熱はなさそうだな。眠いのか?」  「そ、そそそそうかも」  「なら寝た方がいい」  「……うん」  布団を頭からかぶり、繋がっていた手を離した。あっけなく離れても感触がまだ手のひらに残っていて、そこから体温を上げているようだった。  「じゃあ行くな」  「ありがとう」  羽場は唇の端をわずかに上げて医務室を出て行った。  姿が見えなくなるとすぐに追いかけたくなった。 一人の部屋が寂しいのだろうか。  でもいつも自宅に帰っても誰もいない暮らしには慣れてきたつもりだったのに。  考えれば考えるほどわからなくなる。  浬はしばらく天井を眺めていた。
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