第十六話

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第十六話

 強張っていた肩の力を抜くと心臓が大きく跳ねた。 身体を巡っている血液がつま先に落ちていき、体温がどんどん 下がっていき寒気がする。  「静かだけど緊張してるのか?」  「……こういうの初めてだから」  羽場に気取られないように浬は声を張った。  「お姉さんってどういう人?」  「我が強くて一度決めたら譲らない」  「羽場くんもそうだよね」  「そうか?」  羽場の顔を思い浮かべる。少し困ったように唇に緩くカーブを描いているかもしれない。  羽場の顔を思い出すと血液が再び巡り始め身体が温かくなっていく。  お姉さんはどんな見た目のなのだろう。羽場と似て美人なのは間違いないだろうし、背もすらっと高いのかもしれない。  ふいに髪の長い女性が瞼の裏に浮かんだ。  腰まである髪は絹のようにキレイで、黒曜石の瞳は少し冷たい印象を与えるのに、桜の花のように儚げな笑顔をつくった。  この人を知っている。  どこで出会った?  大学?  病院の先生?  喉にまで出かかっている答えがつっかかってでてこない。  「お姉さんって生まれつき目が見えないの?」    「……事故だ。姉さんは交通事故に遭ったんだ」  記憶の蓋がぎぎっと音をたてる。いまにでも開いてしまいそうだ。それを止めようとする浬の手はなぜか記憶の瓶に触れられず、虚空を彷徨う。  やめて。待って。まだもう少しだけーーりんとベルの音が響き、室内は水を打ったように静かになった。 シャツが張り付くほど汗をかいていて気持ちが悪い。  鼓膜のなかで心臓の音が聞こえる。  「暗闇レストランにご参加いただき、ありがとうございます。これから料理を運んでまいりますので、ごゆっくりご堪能ください」  支配人の合図と共に皿が運ばれてくる気配を感じた。 料理は順調に進んでいく。どれも食べて欲しいといい匂いをしているのに一口食べるだけで気持ち悪くなる。  次第に口を開くのも億劫で食欲が湧かない。  メインが運ばれるときには羽場の話に相槌を打つだけになった。  「口数が減ってきたがどうした?」  「……ずっと神経を使ってたから疲れただけだよ」  「そうか」  羽場はそれ以上問いつめず、食事を再開させているようだった。 目隠しをされててよかった。見えていたら気づかれていたかもしれない。  肉を一口噛むとどろりとした肉汁と独特の臭みに吐き気をもよおした。 ハンカチで押さえようとしたが間に合わず、 手のひらに吐き出してしまった。  「ごほっ、げふっ……」  「どうした?なにがあった」  「ちょっと驚いちゃっただけ」  平静を装いつつ汚れた手をナフキンで拭いた。とてもじゃないが料理を続けられそうにない。  音をたてないように食器を置いた。頭の痛みはどんどん増していく。  目を開けても閉じても暗い闇が続き、飲み込まれてしまいそうだ。  「もう食べないのか」  「ちゃんと食べてるよ」  「……帰るぞ」  アイマスクを外され、光が戻ってきた。明るさで目が眩んだのは最初だけで瞬きを繰り返すと目を吊り上げた羽場に見下されている。  「連れが具合い悪いみたいなので帰ります。お会計を」  「は、はい! すぐ準備します」  会計を済ませた羽場は浬を支えながら出口へと向かう。 外に出ると湿気をまとった空気が鼻孔を通り、脳に新鮮な酸素を送ってくれる。 何度か呼吸を繰り返すと頭の痛みは和らいできた。  目の前の公園のベンチに浬を座らせると羽場は自販機で水を買って手渡してくれた。  「飲め」  「いくらだった?」  「早くしろ」   押しつけられるような形でペットボトルを受け取った。冷たい水に混じって恐怖も流れていき、ほうと一息漏れた。  「また迷惑かけちゃったね」  「具合いが悪かったなら先に言ってくれ」  「ごめん。最初は平気だったんだけど」  「前にも似たようなことがあったな」  講義中に記憶の断片が蘇り、同じようなことがあった。そのときも羽場は助けてくれた。  街灯のわずかな光でも顔色が悪いのだろう。いつも無表情の羽場が不安げに揺れている。  「身体が弱いのか?」  「そうじゃないけど」  嘘をついている後ろめたさが急き立ててくる。 これだけ迷惑をかけといて本当のことを言わないのは羽場のやさしさを蔑ろにしているのと同じだ。  浬は口を開く。  「僕は記憶喪失なんだ」  「は?」  「一年前に交通事故に遭って記憶がないんだ。言ってなくてごめんね」  黒曜石の瞳が見開かれる。  初めて浬の名前を知ったときも羽場は驚いていた。そのとき訊けばよかったのだ。僕のこと知ってるのと問えば、羽場は罵詈雑言を浴 びせたのかもしれない。  それを詫びて羽場との関係はそこで終わり。  そしたら羽場に迷惑をかけることもなく、こんな気持ちを知らず大学生活を送れたのだろう。  でも羽場が不器用だけどやさしいところやお姉さん想いなところ、子どもがちょっと苦手なところや高い体温などたくさんのことを知ってしまった。  その全部が愛しい。  「ふざけるな! そんなドラマみたいなことがあるか!」  「この額の傷、事故のときに頭をぶつけたんだ」  前髪をあげて薄く線の入った額を指さした。羽場はそれを一瞥するとますます顔を歪ませる。  「だったら俺がここに来た理由はなんだよ。どうしてそんな」  最後の方はなにを言っているのか聞こえなかった。 羽場はとても苦しんでいる。浬と会ってからずっとずっと。  それが全部『浬』のせいだということも。  「オリエンテーションのとき僕のこと知ってたよね。もしかして前に会ったことがある?」  「……おまえなんて知らない」  羽場は背中を向けて歩きだした。一度も振り返ってはくれなかった。  「好きになってごめんね」  その声は夜空に吸い寄せられて消えた。
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