第八話

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第八話

 浬はコンビニでゼリーやスポーツ飲料水、レトルトのおかゆなどを買い込み、羽場のアパー トへ向かった。 建物を目の前にして腰が引けてしまうが、 西藤に頼まれたからという言葉を盾にすれば、買ったものくらいなら受け取ってくれるだろう。  勇気を出してインターフォンを鳴らすが反応はない。 (起きあがれないほど具合いが悪いのかな?)  ドアノブを回すと鍵が開いている。  「羽場くん?いますか?」  隙間から覗くとカーテンを締め切っているせいか、室内は真っ暗だった。  「羽場くん」  部屋の奥にまで聞こえるように声量を大きくしたが反応はない。もしかして、と最悪な事態が浬の頭に浮かぶ。  「お邪魔します」  床には脱ぎっぱなしのTシャツや下着、飲み干したペットボトルが溢れていてだいぶ散らかっている。  「うっ……うう」  浬はうめき声に驚いてベッドに近づくと寝ている羽場の姿があった。苦悶の表情を浮かべ、低く唸っている。  熱で苦しんでいるのかもしれない。  考えるよりも先に身体が動いた。  浬は洗面所からタオルを持ってきて羽場の身体を拭いた。新しいシャツに着替えさせ、羽場の額に買ってきた冷却シートを貼る。  床に散らばっているタオルや服を集め、浬は洗濯機の中に放り込んでボタンを押した。  狭い部屋を右往左往としている気配に気づいたのか、羽場が目を覚ます。  「……姉さん?」  「藍谷です。ごめん、鍵が開いていたから勝手に入っちゃった。いま洗濯と掃除をしているところ。なにか食べる?」  羽場の濡れた瞳は蕩けていて幼く見えた。  子どもが熱を出して寂しくなって母親を求めているような愛らしさにも似ている。  いや、お姉さんを呼んでいたから姉っ子なのだろうか。  しばらく浬を見つめた羽場は再び瞼を閉じた。  浬は慌ててペットボトルにストローをさして羽場 の肩を叩く。起きたのなら水分補給をしないと辛くなる。  「飲める?」  ストローの先端で羽場の唇を当てるとうっすらと開き、こくこくと飲んでくれた。  「なにか食べた? 一応おかゆとかゼリーを買ってきたんだけど。他に食べたいものがあったら買ってくるよ」  羽場は口からストローを離し、小さく頭を振った。  「……帰ってくれ」  「でも、こんな羽場くんを放っておけないよ。せめて薬飲むまでいさせて?」  「どうして、おまえは」  続く言葉が見つからないのか羽場は口を噤んだ。  「ゼリーにする? それともプリンの方がいいかな」  「……ゼリーでいい」  「持ってくるね!」  羽場が食べやすいように背中を支え、ゼリーを渡した。リスのようにちまちまと一口ずつ時間はかかったが完食してくれた。  テーブルにあった市販薬を飲み終わると羽場は横になったので、浬は布団を肩までかけてあげる。  顔色は悪いが食欲もあったし、薬も飲んだから一安心だ。 羽場は不思議そうに額の冷却シートを触っ た。  「これも藍谷がやったのか?」  「そうだよ。あと一応着替えも」  「どうしてこんなことをする。放っておけばいいだろ」  熱で弱っているせいか羽場の言葉には棘がない。 どうして羽場の看病をしているのか海璃でもわからなかった。  西藤に頼まれたからというのもあるが、だったら見舞い品を置いて帰っても役目を十分果たしたと言える。  掃除や洗濯、着替えまで手を焼いた自分の行動に一番驚いているのは浬自身もだ。  「放っておけなかったんだ。あ、でも冷蔵庫とか洗濯機とか勝手に使ってごめんね」  「……調子狂うな」  羽場は怒りたいのか、泣きたいのか、笑いたいのかいろんな感情が混ざった表情を浮かべた。  初めて人間らしい顔を見た気がする。 いつも無表情で氷のように冷たい視線を浬に向けていた羽場は人形のようだった。  それがいまは血が通い、浬と同じ体温のある人間だのわかり、羽場への恐怖心が消えていく。  関わりたくない人から気になる存在に変わりつつあった。  (もしかしてきちんと話をすれば仲良くなれるのかな)  あれこれ浬が考えているうちに羽場は再び寝てしまった。起こさないようにベランダへ行き、洗濯物を畳んで床に並べる。  目を瞑っている羽場の睫毛は長い。時折震えると光の粒が星を降らせているようだ。  その寝顔を見ているとアドレナリンが切れたのかどっと疲れが押し寄せてきた。 全身が鉛のように重い。 頭が船を漕ぎ始め、浬の意識がゆっくりと溶け ていった。
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