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第一章 罠は仕掛けられた
市川蘭が講演会の会場に入ったとたん、聴衆のお喋りはぴたりと止んだ。
地元民らしき彼らは、あからさまな好奇の目を蘭に向けている。中には、ひそひそと陰口を叩く者もいた。
「オメガだ」
「オメガに政治家先生の話がわかるのかね」
そんな侮蔑めいた囁きなどものともせず、蘭は会場内を見渡した。本日の講演者が立つであろう演台の場所を確認し、そこから視界に入りやすいのはどこか、素早く計算する。幸運にも、空席が一つあった。
蘭は、躊躇なくその席まで進み、腰かけた。すると隣席の老人が、即座に話しかけてきた。興味津々といった様子だ。
「どこから来たん?」
「東京から」
蘭は、正直に答えた。ここは、山陰地方の小さな町だ。地元の人間でないことは、一目瞭然だろう。隠しても無駄だ。
「わざわざ?」
老人は、目を丸くした。
「いやあ、熱心やなあ。よっぽど、白柳先生に憧れとるんやねえ」
蘭は薄く微笑すると、前を向き直った。きっと、白柳陽介も同じ感想を抱くことだろう。自分は東京でも講演を行っているのに、なぜわざわざ地方まで出向くのか。自分の熱烈なファンに違いない、と……。
その時、司会者の高らかな声がした。
「お待たせしました! 衆議院議員、白柳陽介先生のご登場です。拍手でお迎えください!」
周囲の人々は、無邪気に手を叩いている。その眼差しは、芸能人を見るそれだった。当然だろう。白柳陽介といえば、二年前に政界に進出する前は、いわゆるタレント弁護士だった。メディアには、連日露出していたものだ。その名残か、今も女性からの人気は絶大だ。理由は、切れ味あるトークと、目鼻立ちのすっきりした爽やかなルックス、三十二歳独身というプロフィールであろう。――そして何より、アルファだから、に違いない。
白柳は、笑顔を振りまきながら演台に登場した。瞬間、二人の視線が交錯する。蘭は、胸の中で誓った。
――今夜、落とす。
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