道教の歴史 これだけ基本知識

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④同じ頃、張道陵(ちょうどうりょう)五斗米道(ごとべいどう)を興し、孫の張魯(ちょうろ)四川省漢中(しせんしょうかんちゅう)を支配し、道教の教えに基づき、善政を敷いた。  ところが215年に曹操(そうそう)が漢中に出兵すると殆ど戦うことなく降伏し、その後は朝廷や貴族の庇護の下、活動を続けた。  子孫は江西省竜虎山(こうそしょうりゅうこざん)に本山を置き、「天師道(てんしどう)」と改名し、指導者は「張天師(ちょうてんし)」と名乗った。  その後、「正一道(しょういつどう)」と改名し、現在も台湾で布教活動を続けている。 ⑤五世紀の南北朝時代に成立した「新天師道(しんてんしどう)」は北魏(ほくぎ)の庇護の下、大きな勢力を誇った。  この時に初めて「道教」の言葉が使われている。 ⑥道教と権力の癒着が進むとそれに反発するかたちで、十二世紀に「全真教(ぜんしんきょう)」「太一教(たいいつきょう)」「真大道教(しんだいどうきょう)」の三つの教団が興る。 ⑦現在でも道教は、中国の民族宗教として信仰を集めている。 ↓連環画『三国演義』より引用。曹操に降伏する張魯。  実際の歴史より千年近く経って書かれた小説のため、張魯が道教の教義に基づいて善政を敷いたことは全く触れず、孔明(こうめい)の策略に乗せられる浅はかで強欲な人間として描かれているのはひどい。  史実では、張魯は戦闘で民衆を苦しめたくないと最初から戦闘意欲は全くなく逃走。曹操は後世で悪名を蒙ることを恐れ、張魯を説得し、自分の客分とした。cf7c11db-7ade-4512-8a07-536b04ef3ef7  
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