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 列強のひとつに数えられる、デカルト王国。その首都より遥か南に、「ブート」という町があった。温暖な気候と、治安が良いことだけが取り柄の、小さな田舎町だ。  ブートは今、夜を迎えている。真っ黒に染め抜いた布に、銀の砂を撒いたかのような美しい空。天上に広がるそれを熱心に見詰める、一人の乙女がいた。  リイリア・ジェン。下級貴族ジェン家の長女である。  屋敷の庭の隅にある、元は使用人用の古びた宿舎が、現在の彼女の住まいだった。  二階のバルコニーに出て、リイリアは満天の星を見上げている。 「ここから空を眺めるのも、今日が最後ね……」  つぶやきながら、リイリアは目の前の柵に触れようとして、そしてハッと手を引っ込めた。この柵はだいぶ傷んでいて、体重をかければ崩れてしまいかねない。恐る恐る柵から離れて、リイリアはため息をついた。 「今度のおうちはぼんやりしていても、バルコニーが崩壊しないといいんだけど……」  重苦しい吐息は、暖かくなり始めた春の風にあっさりと溶けた。  淋しげな瞳を、リイリアは天上に向け続けている。故郷の空を彩る星々の形を、位置を、輝きを、記憶に焼きつけようとしているのだ。  なぜならリイリアは明日この地を発ち、恐らくは二度と帰って来られない。素朴なこの田舎町から遠く離れた都へ、嫁入りすることが決まっているのだ。  ――新郎の元へ旅立つ前夜の、花嫁の心境は如何ばかりか。  一抹の不安。それを埋めて余りあるほどの、喜びや期待。心の内はそういったもので満たされて、然るべきだろう。  しかし――。  リイリアにあるのは、諦観。それだけであった。  ジェン家は、貴族とは名ばかりで、とても貧しかった。  リイリアの父は見栄っ張りなうえに無能で、そのうえ家族のために生活を良くしようという心構えが完全に欠落していた。  リイリアの実母は、彼女が十歳のときに亡くなっている。母の死後すぐ、父と似たり寄ったりの性根をした継母がジェン家に入り、家畜のようにポンポンと子供を産んだ。そして継母は当然のように、先妻の子であるリイリアを、賃金が払えず解雇した使用人たちの宿舎に追いやった。以降両親は、このジェン家長女の養育を放棄したのだった。  しかしリイリアはめげなかった。生前の母に教えられたとおり、広さだけはあった庭に畑を作り、そこで作った野菜を食べたり売ったりして、たくましく生きた。  わずかな日々の糧を得るだけの余裕のない暮らしぶりだったから、リイリアは貴族でありながら、一切の贅沢を知らず、育った。  そんな薄幸の娘も、ついこの間十八になった。野良仕事に勤しんでいるせいで肌は焼けてしまっているが、その程度はリイリアの美に何の影響も与えてはいない。  ゆるくうねる金色の髪。憂いを帯び、神秘的に光る翡翠の瞳。高い鼻に、形の良い可憐な唇。毎日の労働のおかげで細く引き締まった手足に、それでいて豊満な胸。  男ならば誰しも虜になるであろうほど、リイリアは美しく成長していた。そしてその美貌は、とある大物を釣り上げたのである。  王家との繋がりもある由緒正しき大貴族にして、現役の大臣、ルードヴィッヒ・ケイン・アリアッシュ伯爵。そのような傑物が、リイリアに結婚を申し込んできたのだ。  御年六十歳のアリアッシュ伯爵は、三年前に長年連れ添った妻を病で亡くしたそうな。その後添いに、リイリアを望んでいる。  常識と愛情を備え持ったごく普通の親ならば、四十以上も年上の男に娘を差し出すはずはない。  だが、リイリアの両親は違った。恐らくは伯爵側から、持参金やら金銭的な援助の申し出やらがあったのだろう。  父は珍しく上機嫌で、リイリアに言い放った。 「ようやくおまえにも、役に立ってもらうときがきたな」  食べるのも困るほど貧に窮しているというのに、なぜかブクブク肥え続ける父は、出荷前の牛か豚を値踏みするかのような目つきで、娘を眺め回したのだった。  落ち込むところまでとことん落ち込むと、あとは浮上するだけだ。特にリイリアは、そういった際の上昇速度が抜群に早い娘であった。 「まあ、こんな家にいるよりはマシかもね」  相手は伯爵家だ。とりあえずご飯はちゃんと食べさせてもらえるだろうし、繕い過ぎて地図のようになってしまった下着も、履かずに済むかもしれない。 「まだ見ぬ未来に絶望することこそ、無駄なことはない」。それは亡き母の口癖だった。  母は最低な夫との苦しい暮らしの中で、それでも小さな幸せを見つけることに長けた女性であった。そんな母を、リイリアは今も尊敬している。 「住めば都と言うし」  そう、行ってみたら、やってみたら、意外と性に合っているということもあるだろう。  夫となるアリアッシュ伯爵は、どれだけ年上だとしても、未熟な自分を妻にと選んでくれたのだ。  ――伯爵を、精一杯、支えて差し上げよう。  一度覚悟を決めれば、心に掛かっていた黒雲はすっきり晴れていった。不安に翳っていた顔を希望で輝かせて、鼻歌交じりに室内に戻る。  ――リイリアはこのように、前向きすぎるほど前向きな娘であった。  さて、明日の支度をしなければ。古いカバンを取り出し、荷物を吟味する――と、いうほどの手間もいらない。わざわざ嫁入り先へ持参するようなものを、リイリアは大して持っていなかったのである。  ――我ながら、なんという貧乏……。  赤面しながら、リイリアは母が残してくれた本などを丁寧にカバンに詰めた。  ほかになにかないかと探していると、コツコツと小さな物音が聞こえた。顔を上げれば、先ほどまで立っていたバルコニーに、小さな人影がある。 「カイネ……!」  物憂げな表情で窓ガラスを叩いているのは、少年だった。名を、「カイネ」という。  リイリアは急いで駆け寄ると、窓を開けてやった。 「どうしたの、カイネ。こんな時間に。――ああ、早く中に入って! うちのバルコニーは木が腐ってて、危ないのよ!」 「お姉ちゃん……」  部屋に足を踏み入れると同時に、カイネはリイリアに抱きついた。 「わっ……」  少年を抱き留めながら、リイリアは驚きに目を見張った。  ――また、背が伸びている。  春と秋、年に二度会うごとに、五つ年下のカイネはどんどん大きくなっていく。初めて会ったときは胸の辺りまでしかなかった彼の身長は、今ではリイリアとほとんど変わらない。  体もがっしりと、たくましくなっている。だいぶ筋肉がついたようだ。  以前とは異なるガッチリと固い体に触っていいものか迷いながら、リイリアは、男の子の成長はこんなにも早いのかと感心した。  この少年とリイリアが出会ったのは、八年ほど前になる。  リイリアの畑に迷い込んできた当時のカイネは、小柄でガリガリに痩せていて、いつもびくびくおどおどしている臆病な少年だった。  ――それがこんなに立派になって……。  当時を懐かしく思い出しながら、リイリアはそっとカイネを自分から離した。 「久しぶりね、カイネ。いつ、こっちへ来たの?」 「……………………」 「ねえ、今夜は急にどうしたの……?」  首を傾けて優しく尋ねると、カイネはようやく口を開いた。 「お姉ちゃん、お嫁に行くって本当? おじさんが町で騒いでるのを、聞いたんだ」 「……………………」  リイリアは肩をすくめた。どうせ父は、嫁ぎ先であるアリアッシュ伯爵家からせしめた支度金を使い、分不相応などんちゃん騒ぎをしているのだろう。  ――別にいいけど、そのお金は私が嫁入り道具を揃えるためのものなのに。  床に置きっぱなしの、詰めるものがないためにスカスカなカバンに、リイリアはうんざりと目をやった。 「お姉ちゃん……」  カイネはまっすぐにリイリアを見詰めている。  このいたいけな瞳の前では、嘘をつくのも誤魔化すのも憚られる。リイリアは正直に答えた。 「うん、そうなの」 「なんで急に……!」 「急じゃないのよ。本当は去年には、向こうのおうちに行っていたはずだったの」  そのとおり、リイリアが伯爵家に輿入れするのは、昨年のはずだった。しかし老齢だった前王が崩御し、その喪に服すという先方の申し出により、一年間延期されたのだ。嫁ぎ先のアリアッシュ伯爵が、王城に勤める現役の大臣であるためである。 「そんな、そんなのって……。僕、そんなの嫌だ……!」  品の良い立ち居振る舞いが示すとおり、カイネは貴族の息子である。実家は首都にあるが、毎年二度ほど静養のため、この田舎町の別荘を訪れるのだそうだ。  この町に友達がいないカイネは、リイリアによくなついた。  リイリアにとっても、カイネは弟のような大切な存在である。  だからピクニックに行ったり、農作業を手伝ってもらいながら遊んだりと、二人で楽しいひとときを過ごしたものだ。 「私もあなたに会えなくなるのは寂しい。でもこの家のために、断れないの。まだ幼い妹、弟たちがいるしね」  半分しか血が繋がっていないうえに、父母の教育の賜物か、姉を下僕のように見下し、蔑む弟妹ではあったが。それでも、飢えさせるのは忍びない。 「お姉ちゃんが犠牲にならなくても……」 「いいのよ。そうそう、相手は伯爵家だから、カイネともまたどこかで会えるかもしれないわ。だから、そんな顔しないで」  カイネの黒い瞳には涙がたまり、今にも零れ落ちそうだ。頬を撫でてやると、少年は悲しみを堪えるように唇を噛み、仕立ての良いズボンのポケットから何かを取り出した。 「これ、あげる。僕のお母様の形見なんだ」  思わず受け取ってみれば、ペンダントだった。金色のチェーンに、薔薇の絵が描かれた飴玉ほどの大きさの陶器がぶら下がっている。 「そんな大切なもの、受け取れないわ」 「いいんだ。僕の代わりに、お姉ちゃんの側にいさせて。――つけてみてくれる?」  カイネに促されるようにして、リイリアはボロボロのワンピースの上からペンダントをつけた。 「似合うよ」  カイネはリイリアの部屋に来て、初めて笑った。  カイネにとって大事な思い出の品であるのは間違いないが、さほど高価なものでもないようだ。カイネが納得するならと、リイリアはペンダントを受け取ることにした。 「ありがとう。大事にするね」 「うん……。ずっとつけていて」  ふと時計を見れば、もう夜の十時を回っている。 「さあ、カイネ。もう帰ったほうがいいわ。ガーラさんに怒られちゃうよ。内緒で来たんでしょう?」  ガーラというのは、カイネの世話係の女性である。四十ほどの女性でなかなかの美人だが、性格は大変きつい。  そしてカイネに友達ができないのは彼女のせいではないかと、リイリアは密かに思っている。  ガーラはカイネの周囲に常に目を光らせ、近寄る者があれば、「うちのカイネ様にあなたは相応しくありません」と追い払うのだ。度を越して過保護なのである。  しかしリイリアはそんなガーラの攻撃をかいくぐり、強引にカイネと仲良くなった。いつも寂しそうにしていたこの少年を、放っておけなかったのだ。 「一人で帰れる? 送って行こうか?」 「……………………」  カイネは俯いたかと思うと、すぐに決然と顔を上げた。 「お姉ちゃん。僕、今夜、ここに泊まっちゃダメかな?」 「えっ?」 「最後の夜……。僕、お姉ちゃんと眠りたい……。一生の思い出にしたい」 「一生の思い出」とは、随分大げさな。  上目遣いで切々と訴えるカイネを前に、リイリアは困ったように笑った。だがカイネのおねだりは愛らしくて、いつだって断れない。 「甘えん坊さんね。――いいよ。でも朝イチで帰らないとダメだよ? ガーラさん、心配し過ぎて、死んじゃうかもしれないからね」  艶やかな黒髪に覆われた少年の頭に手をやると、リイリアは優しく撫でた。
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