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二話、紅葉
翌朝、あたしはあまり眠れないまま、目を覚ました。しばらくの間、何もする気力もなくて呆けていたのだ。
すぐ側に女房の鈴鹿が来ていたのも気づかないくらいにだった。
「姫様。どうかなさいましたか。ご気分が優れぬのでは?」
やっと、声をかけられて我に返る。あわてて、返事をした。
「えっ。何、鈴鹿?」
「…鈴鹿じゃございません。まったく、いつになく、しんみりとなさっているから声をかけたのに」
ものすごく、怒ってカリカリとしてしまう。別邸の中は割と人少なの状態だから、どちらかというと古参女房の仲間入りをしている鈴鹿が里下がりをした他の年かさの者たちの代わりをしている。
新参の子達のまとめ役を引き受けているから、仕事と新人指導などで忙しく疲れているようだった。そりゃ、人を世話したり、面倒を見たりするのはよっぽどに気だての良い人とかじゃないと並大抵の事ではない。
そこら辺を言えば、あたしなんてまだまだ、楽してるわよ。もっと、苦労は味わってこそ人って成長するものなのだ。
貴族の姫君なんてのは毎日、部屋の中で裁縫や家政を取り仕切り、しかも書やお歌に始まり、楽などの方面の教養もなくてはいけない。これに、礼儀正しさや美人だったらなおさらだ。
つまり、才色兼備で性格も程良くたしなみ深く、おしとやかで大人しい。こういうのが世の男どもが持つ理想の女性というものらしいのだ。女の立場からいえば、たかが理想、夢にすぎないわね。幻に等しいくらいよ。
「…ねえ、鈴鹿。あんたにちょっと頼みたいことがあるのだけど」
「いきなり、何です?」
「あ、いや。その、昨日は京の里邸におられる女御様から文が届いたじゃない。お歌しか送らなかったから、ちょっとお忍びで訪ねてみようと思うの」
なるべく、さりげない調子で切り出してみた。鈴鹿はしばらくの間、考え込むようにしていた。
突然の事で驚いているようだ。
おそるおそる伺ってみると、ふうっとあきらめたようなため息をつく。
「ええ、そうですわね。姫様はずっと、内に籠もりきりで外においでになっていませんし。少しは気分転換をされた方が良いでしょうね」
途端にあたしは飛び上がりたい程に嬉しい気持ちになる。普段だったら、真っ向から反対ばかりする鈴鹿が折れてくれたのは好都合だった。早速、お化粧を念入りにしてとびっきりの新調のお衣装を重ねて準備万端に整える。
秋らしく、黄紅葉の襲を選んだ。表と裏は黄と蘇芳の配合でどちらかというと地味かもしれない。その上に同じような色で菱紋の小圭を重ねる。
またさらに、細長は綾織りで格別に趣向をこらして作ってあるので着ているだけで気分はいい。衣装一つでこんなに気分が変わってしまうのも自分が女であることを改めて、実感してしまうのだった。その後、女房の鈴鹿と新人の荻乃というまだ、年が十六くらいの子を供にして乗り込む。一路、京の都へと牛車はゆっくりと進んでいった。
朝方に出発したので、二条邸に着いたのは未の刻頃であった。いつもより、衣を重ねているので重くて重くて息が苦しい。
後宮へ出仕した時は唐衣と裳をつけるけど細長の場合、圭を下に幾枚も着込む。余計に動きづらいのが難点だ。
それでも、頑張って牛車から降り、簀子縁を歩いて女御様のおられる部屋まで先導の女房に案内されながら向かう。
御簾の前に衣ずれの音に注意しつつ、座った。
「太秦からよくお越しになりました。女御様がお出ましになります」
古参の女房がゆるゆるとした口調で言った。かすかに音がしたかと気が付くとお声がかかる。
「大姫」
懐かしいしとやかな若々しい女御様のお声だった。
「お久しぶりですね。ほんに何とおなつかしい。二月もの間、ずっとあなたのことが気にかかって心配でしたよ」
「…そんな。女御様もお元気そうでよいことです。けれど、弟のことまで気にしていただいてもったいない限りです」
なるべく、控えめによそゆきの顔をして返事をした。
女御様はいつもと違うあたしの口調に戸惑われたらしく、それでいて少しはまともな姫らしい口上を言えるようになっているのがおかしいのだろう。くすりといたずらっぽい忍び笑いをされた。
「…姫も大人らしくなられましたね。それにしても、昨日はすぐにお返事が届いたので驚きましたよ。以前は割と自由に動き回って天真爛漫でいらしたのに。後宮から三条のお邸に戻られた後は噂を耳にするばかりで。何かと音信が途絶えがちでしたし」
女御様はいったん、言葉を切られるとため息をつかれた。
「…そういえば、あの左京大夫殿がわたくしの許を訪ねてこられた事がありました。その折に、あなたが尼寺にいるとか聞きましてね。あの時はさんざんだったとおっしゃっていましたよ。わたくし、お気の毒だなと思いました、左京大夫殿をね」
女御様が意外な事を仰せになったので驚いてしまう。あたしは思いもかけない事だったのですかさず、聞いていた。
「…あの、女御様。こちらに左京大夫様がいらしたのですか?」
「…そうですよ。あの人がわたくしの所へ来られるのも珍しい事ですからね。いろいろと尋ねたかったのですけど。まあ、一番知りたかったのは姫の身辺や近況でしたから。そのことを尋ねてみたのです。もともと、大夫殿は物静かで無駄なおしゃべりはなさらないから。最初はしゃべりたくないご様子だったわね。それでも、一言か二言、姫の事を尋ねたら。少しずつ語り出して。驚きました」
ふと、楽しげにお話になる。もともと、明るくて波乱怒濤がお好きな方だから、うきうきとなさっていたが。
あたしは落ち着かない心地になる。
黙っていたら、女御様がふいにこんなことをおっしゃった。
「…大姫、人少なになっておりますから。こちらへ入ってこられませよ」
女房が御簾を巻き上げてあたしは中へ入った。退出するように合図がされたらしく、音もなく女房は去っていった。
居住まいを正して座り直した。扇もなく、隔てもないので女御様を間近に拝見する事になる。
きらきらしく、まるで藤の花が盛りと咲いている様を思わせるお美しさであった。ちょうど、初夏のさわやかな風に揺られて、辺りを払うがごとくに薫るようなそんな感じの清々しく艶やかな風情でいらっしゃる。
まあ、あたしの周りには美人が多いというか。それでも、藤壷女御様を見ると父方も母方も兄弟で濃すぎるくらいの血筋なのに、こうも違うと少し気が滅入ってくる。
「…はあ。お懐かしい事で。あたし、突然に連絡もなしで来てしまい、申し訳なく思っています」
ついつい、声も出にくくなる。それくらい、こちらを圧倒する何かを持っておられるのだ。それは良いとして話を継がなくては。
「…ふふっ。良いのですよ。たまにはあなたが突飛な事をなさるのを見るのも面白いではないですか。そうは思われませんか?」
「…女御様はそれでよろしいのかもしれませんけど。でも、あたしはあまりに勝手な事をすると父様や義隆に迷惑をかけるし。女の身だと自由というか出かけたりしたくてもなかなか、できないでしょう。叔母様にご迷惑をおかけしてるわけですから、こうやって二条のお邸へ来るのは」
「まあ、そんなことを考えていらしたの。姫がこちらへお越しになると聞けば、我が母上も喜んでおりますよ。何と申しても邸が華やぐと張り切っていますのに」
反対に説得をされている。あたしはただ、一般論を言っただけなんだけど。
典子様こと女御様は気を取り直すようにあたしの手を握りながら、にこやかにお笑いになった。あたしは顔が熱くなるのを止める事ができなかった。
その夜、あたしは太秦へ使いをやり、二条のお邸に一泊する事になった。女御様はご自分の側で小さな頃のように寝ようとおっしゃっていたけど。
でも、丁重にお断りした。失礼だとは思ったけど、一室を借りて泊まったのだった。折よく、氷雨も降り出した。しとしとと興をそそるものだと思う。
懐かしい、あの二月前に弟が過労と夏風邪がたたり、倒れてしまったのだった。その時も今晩と同じく雨が降っていた。変に大人になってしまっているのはどうしてだろうか。不思議な気持ちになる。それさえ、もう霞の彼方へ去ろうとしているようだ。深い静かな眠りへ入ってゆこうとしていた。
けれど、目からつと熱いものがこみ上げてくる。
あの人に本当は会いたい。実を言うと、幼なじみではあったから気にも留めてなかったけど。
それでも、眼裏にあの人の子供っぽい優しい微笑みが思い出される。どうしてか、胸が切なくなる。人を恋うるとはこういうことをいうのだろうか。胸を締め付けられるような痛みも伴う。
いつもであれば、弟や父様、亡き母様、お祖母様の事が恋しくてしょうがなくなるのに。知らなかった、こんな思いは。橘の君に申し訳なくなる。ずっと、好きだったのに裏切ってしまっている。
あの人の事が思い出されてたまらない。初めて、今までの自分とは明らかに違う事に戸惑ったのであった。
翌朝、一通りに女御様に帰還の挨拶を申し上げて早々と都を引き上げた。昨夜、一晩中泣きはらした瞼や目元がひりひりする。
牛車の中で付き添いで来ていた鈴鹿と荻乃は様子がおかしいと随分と心配そうにしている。
「姫様。昨日はきちんとお寝みになりましたの。なにやら、あまりお元気がなさそうですけど」
「…大丈夫よ。しばらく、考え事してただけだから。余計な心配はしなくていいわ。義隆の心配をしていてちょうだい」
作り笑いをして嘘をついた。鈴鹿はいぶかしげな表情でこちらを見つめてくる。あたしはため息が自然とこぼれた。無性にあの人、友成の許へ行きたい。それはできなかったけど。
あたし達は昼前に太秦の別邸に帰っていた。けど、部屋にゆっくりと帰るのもいらいらして急ぎ足で向かう。
部屋に戻ると妻戸や半蔀を閉め切ってお文の用意をさせた。ご料紙にこう書き付けた。
〈朝露の玉の緒絶えぬ我が命ながらぶれるも物憂し思ひ〉
意味は(朝露のような私の命です。ながらえているのも物憂い思いがあるからだろうか)というものだ。追記として、(わかりやすいように、妻戸の錠は開けておきます。目印に白の紐を結わえておくので)とも書いた。
そして、従者の清久に届けさせたのである。
夕刻になって、返事の文が届いた。薄様の紅色のご料紙にこんな歌が書いてある。
〈秋の野の風吹きければ雲の間は月に影出て君をうつさむ
突然の便りでとても、驚きました。よもや、無茶な事を考えていないかと心配です。あまり、思い悩むのはよくないですよ〉
文面からは彼らしい生真面目さがうかがわれる。どこまでも、お堅い性格をしてるから文字にもそれが表れるのだろうか。
常識人で理屈を遠そうとする義隆とは友人だから、性格も似てくるのかもしれない。けど、やっぱり、こうやって心配して気を使っている所は義隆よりも年上ではある。
大人だな、女ではあるから自分の事を気にかけられたりすると嬉しい。
と、一人で満足していたら女房の荻乃が灯りをともしにやってきた。部屋がぼんやりと明るくなり、あたしはほうと見入る。
ゆらゆらと揺れる様子に心を奪われた。荻乃は静かに部屋を出て行く。次第に辺りは暗くなってきて、何か落ち着かなくなる。
弟や父様は今頃寝ているだろうか。南南西の方角に弟の部屋があって、真南に父様の部屋がある。
西側があたしの居所だ。
灯りが乏しくなってくる。取り皿に入れてある油も残り少なくなってきたのだろう。
月は下弦で弱々しく、妖しい雰囲気を醸し出していた。そんなに物の怪といったものは信じていない。それでも、勝手に体は緊張のせいでどんな音も逃すまいとしている。
ほとほとと妻戸を叩く音がした。遮る戸は半分くらい開けてあり、月光が細く板葺きの床に差し込む。
鼻に懐かしい侍従の香が薫ってくる。友成が好んでよく扇や衣などに焚きしめていた。
その香りはなかなか風情があり、荷葉を焚きしめていた兄の宰相中将とは違う。
「…ここにいるから。入ってきて」
一言、呼びかけてみた。すっと妻戸が開き、誰かが入ってくる。
足音一つにでさえ、みだりに立てないように忍びやかに近づいてきた。近くまで来ると円座(わろうだ)を用意する。
「とりあえず、座って」
改まって片手で示したら、こくりと頷きながら座についた。顔を合わせづらいのか、斜めを向いている。薄暗い中でも赤くなっているのがわかった。
こっちも呼び出しておきながら、面はゆい。中将からはいろいろとされてはいたけど。たまたま、偶然に巡り会っただけの人だったし。
けど、友成はきちんと好きだと自覚した相手ではあるから恥ずかしくはある。
文を出して返答があったから、こうして会ってはみたけど。
「…あの、姫。こうやって来たけど。安和寺での事はその。乱暴な振る舞いをしたことは謝る」
呟くように切り出してきた。あたしは笑いながらも答える。
「そんな謝らなくてもいいわよ。あれはあたしも悪いのだし」
「…そうか。ならいいんだけど。内心はずっと、姫が気がかりではあったんだ」
先ほどとは打って変わり、真剣な表情になった。何だか、男同士の語り合いになっていないか。
ちょっぴりは色っぽい展開になると期待していたのに。
これだから、堅物は。どうして、この人は若い男女が同じ部屋で隔てもなしに対面している時だというのにこんなことを言うのか。
一気に気持ちも冷めてきた。生真面目な男は今一つ、わからない。
「…で、友成。他に話したいことはないの?」
「…特にない。ところで君は何の用で僕を呼んだんだ?」
まっすぐに見据えられながら言われる。あたしはさてと考え込んだ。弱々しい灯火が友成の瞳に映り、きらきらと光る。あたしは決して、彼も格好悪いとはいわないけど。どちらかというと、普通だと思ってしまう。
兄の中将と比べれば、辺りを払う美しさという点では負けている。さすがに、血の神秘はあるだろうか。
まあ、若さのおかげで肌とか綺麗だし、体格もすらりとしている。雰囲気は兄君と似ているだろうか。
決して、美形とはいえないかもしれないけど。二重で茶がかかった目は印象に残る。
ふむ、真面目な表情の時は鋭さを秘めているし。好みの基準には当てはまっているかもしれない。
綺麗なだけの男なんて嫌いだ。けど、内面に芯の強さを持った人にはどこか惹かれる。
「…友成。あんた、黙ってたら良い男ね」
つい、口走ってしまった。友成は驚いて、二重の瞳を見開いた。
両方の頬から火が出そうだ。言ってしまった。
「…え。何を言ってるんだ?」
「…な、何でもないわ。あたし、変なこと言ってしまったわね」
「…ふうん。女人の考えは僕にはわからないな。理解できない領域だよ」
平然となって答えている。もともと、友成は色恋事には関心がないのだろうか。まあ、友成と付き合うのも悪くないかもしれない。奇妙な思いが芽生えつつあった。
しばらく、黙りこくっていたから、ちょっと疲れてきていた。外では風が吹いているのか、竹林のざわつく音がする。
物の怪なんて怖くないけど。何故か、体が震えた。
「…姫、どうかした?」
おかしいのを感じ取ったのか友成がそっと、肩に手を置いた。反射で袖を掴んでいた。
離そうとしたけど駄目だった。ふと、宰相中将が忍んできた二日前の夜を思い出す。恐怖感がよみがえってくる。
誰か、助けてと叫びそうになった。すると、涙が出てくる。もう、泣きっぱなしだ。あたしは自分が情けなくてうつむいた。
そして、隣の友成にしがみついた。彼は何も言わずに背中をさすってくれる。
「…友成、ごめんね」
謝ると首を緩やかに横に振って気にすることはないと言ってくれた。
「…まあ、何があったのかはわからないけど。泣きたい時は泣けばいい」
優しく言われたのに感激して気がついたら、友成の首に腕を回していた。涙が余計に溢れる。友成は驚いたらしいけど髪を撫でてきた。
そして、手探りで接吻をしていた。何度か繰り返すと袴の腰紐をほどかれる。
自分からも抱きつくと押し倒されてしまう。単姿で上に乗っかっている友成と見つめ合った。
意外と慣れてるなと思っていたら、単衣や圭を脱がされた。そして、深い接吻をされながら、体が熱くなるのを止められない。木々の葉が風に吹かれる晩秋の夜にあたしは友成と一夜を過ごしたのであった。
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