三話、雪の華

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三話、雪の華

 朝明けるのを待たずに友成は起き出した。  体の節々がとにかく痛い。 初体験ではあるけど、結構疲れるものだ。友成は白い小袖だけをしどけなく着崩している。 それがものすごく色っぽくて見入ってしまう。気だるいのとどことなく火照っているような熱さというのか何ともいえない。 「もう、帰るの?」 「…これから、参内しなくてはならないんだ。まあ、今晩も来るけど」 昨夜、いろんな事をその、したばかり。何とも恥ずかしいのといろいろな感情が入り混じってとても複雑だった。お互いの衣を交換する。 後朝(きぬぎぬ)というのは本来、これに意味があるのだ。ごそごそとまだ眠いはずなのに、一人で友成は準備を始めた。そこは彼が随分としにくそうにするので単衣を着る。 そして、腰紐を結んだりするのを手伝った。 「さようなら。また会えるともわからないけれども。名残惜しさに胸が迫る心地です。えっと、夜が明けるのも恨めしいもので。あなたの名がまず惜しまれるかと」 最後にはかなり疲れが向こうも溜まっているのだろう。一通りの決め台詞を言うとさっさと立ち上がって出ようとする。 「うん。気をつけてね。都までは距離があるし」 「ああ。じゃあ、また今夜に」 すっと半開きになった妻戸から友成は出ていった。足音と袴のこすれる音を聞きながら、衣を引き被った。 物語でもこういう時は一夜の契りを交わした男女は情緒あふるるしめやかな明け方を迎えるもの。そして、男は静かに自邸へと忍んで帰って行く。 いいなあ、こういう逢瀬を遂げるのは。想像しては秘かに楽しんでいたあの少女の日々が懐かしい。そうなのだ、まだ気だるいし、体の節々なんか痛みが生々しいくらい残っているけれど。あの頃では予想もしていなかった。 こんな人生の一度あるかないかの出来事に遭遇するとはね。まあ、あたしも大人の女性の仲間入りをしたのだ。いわゆる人妻というやつか。ああ、いいな。人妻か。 高嶺の花ではなくとも禁断の響きってあるわ。もう、これで宰相中将が来る事もなくなるかしらね。でも、友成とは最近、あまり会っていなかったのにすぐに契りを結んでしまった。 もし、他の人たちが耳にしたら、口さがなくいわれるだろう。 『太秦の別邸に避難しておられる東の姫君は男を通わしているそうな』てね。 親の監督不行き届きと見られるかもしれない。あたしはまんじりともせずに眠りについたのだった。目が覚めたら、大分日も高くなっていた。女房の鈴鹿に起こされてようやく眠りから解放された。 さっきまではちょっぴり、艶めかしい気分に浸ってしまっていたので一気に現実に引き戻された。 まあ、白けてしまったといった方が合ってるかもね。周りの者たちは友成の訪れにも気づいている気配が全くない。呆けたようになってて鈴鹿に心配そうに問いかけられた。 「姫様。そのようにぼうとなさってどうなさいました?」 「え。何か言った?」 あたしがとんちんかんな答えをしたのを無視して鈴鹿は褥に近づいた。 「…あら。月の障りが狂ってしまわれたのかしら。褥になにやら、血痕が」 呟くようにして言ってきたのをとっさに耳にして心の臓が口から飛び出そうになった。「血痕」といったら、いわずとしれたあのいろいろとした事の名残だ。 なのに、女房にばれたらどういう目で見られるのだろう。凄く汗が出て震えていた。 弟にどんな顔して会えばいいんだか。 「それより、姫様。朝方、まだ夜が明け始めた頃に文が届いておりました。お返事を必ずいただくようにしてほしいと使いの者が外で待っています」 「そうなの。見せて」 鈴鹿が懐から出して渡してくる。開いてみると色も艶めいた薄様の紫のご料紙だった。 ご料紙には色恋めいた散らし書きの歌が一首したためてある。 〈今はこの思い絶えても滝の音はわきて流るか恋しのいづみ あなたと一夜を過ごして面影が離れない。このような物思いをするのは久しくなかったことです〉 うわ、情熱的だわね。もともと、友成は無頓着そうに見えるから意外とこんな歌を詠んでいるのを見ても内に激しさは持っているらしい。 迂闊にもときめいてしまった。あたしは咳払いをすると、返事をどうするかと考える。 紅のごく薄いそれでいて模様が浮き出た紙を取り出した。墨を薄めにすってさらさらとしたためる。ほのかな筆跡というのはその人の上品さ、たおやかさを演出するのだ。 〈音をきき岩打つ流れとめどなく名こそ惜しまむかひなきほどぞ あなたとの間にいらない噂が立たぬ事をお祈りしています。人の口の端ほど面倒なものはありませんから〉 理屈っぽい内容になってしまった。どういう風に受け取られるかな。後朝の歌ってもっと、あだめいたものにするのだけど。 まあ、いっか。このまま、送ってしまおう。 随分、いい加減に考えていた。その後、自分自身がこの太秦の別邸で大変な騒ぎを起こすきっかけを作ったのがこの文だった。そんなこと少しも思っていなかった。 そういう風に初夜の恥ずかしさのせいで奥深くに籠もってしまう有様であった。 友成との仲が露見したのは後朝の文を交わした朝から六日後の事だった。大納言である父様と弟の義隆にはひた隠しにしてきたけど。 当然ながら、父様は怒り狂ってあたしの部屋まで来ると鬼神のような形相で怒鳴りつけてきた。 「…お前はなんという事をしでかしたのだ。どうして、こんな恥知らずな行いを!」 あたしはそれに黙って次の言葉を待った。 「…ああ、もし、このことが主上のお耳に入ったらと思うと。逆鱗に触れるのは間違いない。それに将来の帝になられるお方の威光を傷つけたのだ。罪に問われでもしたら、わしはどうすればよいのだ」 怒り狂っていたのが段々と顔は青ざめ、はらはらと涙を流し始める。父様はあたしに入内話が出ていたのを知っているのだ。それなのに、他の公達と恋仲になってしまうという事態になった。 今上帝の怒りを買うような事にはしたくないというのが本音だろう。 まあ、あたしはとっくに覚悟を決めていたから性根が据わってしまっている。来るものは来いという心構えができていた。 けど、友成との色恋沙汰が世間に知り渡れば、一族の者に累が及ぶのは明らかだ。深刻に考えたくはないけど、下手したらそんなことにもなりかねない。 確かに、父様が激しく動揺するのは仕方がない事だった。一番心配なのは弟の義隆だ。 あの子は十五にして左近少将という役職である。あたしと友成の事が今上帝や他の公卿に知れ渡りでもしたらまずい。 謹慎処分を言い渡されるくらいはあるかもしれないのだ。義隆の仕事にまで差し障りがあるとなるとさすがにあたしは考え込む。 友成と二人で出奔するか、あたしだけが寺へ行って剃髪をするか。 「…父様。あたし、安和寺に行くわ。自分のしでかした事は自分で責任をとるから」 「なっ。お前、もしや。尼になるというのか?」 「ええ。あたしが剃髪すれば、そんなに厳しく処罰はされないと思うの。というか、むしろ、早めにこうするべきだったわ」 そういうと、父様は悲しそうな表情をした。静かにあたしは背筋を伸ばして父様を見つめた。不思議と胸が張り裂けそうな痛みとかはなかった。ただ、暗くて冬の湖のように深い闇が心の中に広がっていた。 あたしは牛車に乗り、一路、安和寺へと向かっていた。外は夜の帳が降りている。 晩秋から冬に移り変わる時節なので北から吹く風が妙にもの悲しい。本当に俗世を捨てるのを決めたから、なにもかもが心に染みてくる。父様、義隆には随分と迷惑をかけてしまった。 これからは仏道に専念してお祖母様と母様、お祖父様の菩提を弔って生きていこう。あれほど、責めていた父様も出家をすると言ったら、泣きそうな表情になっていた。 「…お前、そこまで決めていたのか。自分で責任をとるとはいえ、これではな。還俗する事は許されぬぞ」 「うん、わかってる。大丈夫、あたしが剃髪すれば、世間の人達もそんなに騒がないと思うし」 「…だが、わしもこのまま、お咎めを受ける覚悟はしている。香子、一人で全てを負う事はない」 「ありがとう。それと友成の文とか女御様からの文とか届いても義隆と協力して返事を出せない理由を考えておいて。剃髪の事はしばらく秘密にしたほうがいいと思うわ」 「うむ。そうだな、とりあえずはそうしておこう」 父様はすっかり腹を括って真剣な口調になった。その後、口の堅い従者を選んで牛飼童にも決して口外するなと言い含めておく。 義隆もみすぼらしい網代車という牛車を用意してさえくれた。 ゆるゆると安和寺に向かい、やがてたどり着いた。寺の門が開かれて内へと入る。 階に着けて降りた。少将の尼君と二人くらいの尼君も一緒になって迎えにきた。知らせを受けていたためか素早く、庵主様に会わせてもらえた。 「まあ、姫君。このような夜なお越しになるとは。髪を下ろされる事、本当に悲しく思われますよ。あなたがこのまま、幸せな時を過ごしてくださったらと御仏にお祈りした甲斐もなかったなんて」 こらえきれないようにはらはらと涙を流された。あたしも我慢できなくなって庵主様の横で声は出さずに涙を流して泣いた。 それでも、剃髪するための道具類はそろえてあり、衣類や調度類なども準備されている。とうとう、伸ばし続けた髪を切るのだ。 鋏を手渡されてそれを尼君とたまたま来ていた僧侶が受け取った。櫛の箱の蓋を差し出すと僧侶が鋏を入れた。 庵主様とお祖母様の同腹の兄宮、一宮様も後になっていらっしゃる。 「さあ、御髪をおろしてあげてください」 一宮様がおっしゃった。几帳の影にいて帷子のほころびの間から自ら、髪を掻きだした。僧侶は迷いながらもあたしの髪を一房ずつ切り落としていく。 全て髪が切られてすっと、今までの枷がはずれてゆくようだ。短くなった髪にそっと触れてみたら、肩につくぐらいまで削がれていた。法衣を尼君達に手伝われながら、着た。僧侶はなぜか泣いていた。 「そんなお若い身空で。出家をなさるとは悲壮なご決心をされたものです」 むせびながら低く呟いた。こちらとしては清々しいというかさっぱりとした心地なのだ。 「いいえ。あたしはもともと出家は望んでいましたので。二月前にも押し掛けて庵主様にお頼みしたこともあります」 「…ほう。それはまた、大胆な事をなさいましたな。姫君らしからぬ事をあなたは思いつかれるのですね」 驚きながら、大きく目を見開いていた。それほど、大した事でもないのにな。少しおかしくなって笑ってしまった。 儀式は滞りなく、終わった。数珠を手にして経の一部を唱えた。 一宮様もご一緒に唱えられる。 「御親のいられる方角にご礼拝をなさい」 そうおっしゃられて、あたしは礼拝をした。凄く、胸に痛みが襲ってくる。 それと同時にまた悲しみがわき上がってきたのだ。ただ、空しさと不安がある中で涙が止めどなく流れた。 けれど、肩が軽くなって息を抜けたと本心から思えた。出家の儀式を終えて新しい尼としての暮らしが始まる。かの浮舟の君ではないが毎日、手習いをして父様達から時候の便りがきたら一通りの歌を返せるようにしようか。 何ともいえない心地だ。それでも、夜が遅いので尼君達に寝所を用意してもらい、朝を待つ事にしたのであった。
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