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四話、冬の客人
翌朝、まだ薄暗い刻に目が覚めた。
なのに、人の起きている気配がする。
どうして、こんなにがやがやしているのかと思うくらいに騒がしい。
「…尼姫君。起きていらっしゃいますか。朝餉を召し上がりませんか?」
庵主様が自らお越しになり、あたしは正直これには驚いた。直々にいらっしゃるなんて滅多にないことだ。
と、肩の辺りや頭がいつもより軽い。思わず、髪に触れたら、短くなっているのが指先の感覚でわかる。
「あの、庵主様。あたし、夢を見ているのでしょうか。首筋がいつもよりすうすうとするのですけど」
「あのね、姫君。あなたは昨夜に出家をなさったのですよ。もう、お忘れになったの?」
苦笑いしながらおっしゃった。呆れているのでそれ以上は言葉が出てこないらしい。ああそうか、思い出したわ。
昨夜、一宮様や僧侶がいらして目頭を押さえて泣いていらしたかしらね。そうだった、すっかりと失念していた。
汁粥やお漬け物の瓜などが振る舞われた。汁物などもあり、すする内に体が芯から温まってくる。
精進料理なのであまり、おいしいというほどでもない。それでも、改めて自分が世捨て人になったのが身にしみた。
朝餉を終えた後、庵主様のお部屋に呼ばれた。
「姫君、一緒に楽のお遊びなどなさいませんか。ちょうど、退屈していたものですから」
微笑みながら、琵琶をお取り出しになる。
「ごめんなさい。その、楽に関してはあまり嗜みがなくて」
「まあ。でもね、わたしが教えてさしあげますから。気晴らしにはちょうどよいですよ」
「…はあ、そうでしょうか。本当にそちらの方面は不得手で」
「そう、おっしゃらずに。さ、箏のお琴がありますから。お弾きになってみては?」
熱心に勧められる。あたし、楽とか風流に関する事は全く興味もないし、実はこれくらい苦手ものもないのだ。まだ、歌とかだったらまずまずだと自分でも思うのだけど。
仕方なく、箏のお琴の側に寄ってみた。この際、何事も挑戦だな。ああ、まさか出家した身で楽を再びするはめになるとはね。
「ふふ、姫君。たまには違うことをしてみるのも気分転換になるでしょう?」
満足そうに笑みを浮かべられた。とりあえず、渋々、苦笑いする。
『何々調子』とか『想夫恋』とかわけのわからない曲をいろいろと庵主様から特訓させられた。しかも、教え方が厳しいのなんのって。失敗したら、御自ら弾いてくださるのはいいのだけど。
やたら、難しいのをわざと真似するようにおっしゃったりでついて行くのがやっとだった。気づいてみれば、夕方になっていた。
その時には手も腕も動かなくなっていた。足も痺れて疲労は頂点な達していた。
「今日はこれぐらいにしておきましょうね。わたしも久しぶりですよ、お若い方にこれほど教えたのはね」
「…いえ、大変結構でございました」
庵主様はお年を感じさせない若やいだ調子でおっしゃった。絞り出すように声を出す。腹に力を入れないと駄目だ。
勤行どころの話ではない。疲れすぎて、あたしは食欲も湧かなかった。
夜もとっぷりと暮れた亥(い)の刻になった。今晩はとても煌々と満月が輝いている。
かといって、月の光を浴びるというのは昔から縁起が良くない。何でも、なよ竹のかぐや姫のお話からそんな迷信ができたとか。
あまり、よくわからないものだけど。それでも、半蔀の戸が東南の方角に開け放してあって、月光が部屋の中まで差し込む。
つい、心も躍って箏を膝に乗せて昼間に習った曲を調子は合わせないで弾いた。空気が湿り気もないよく晴れて澄み渡っているから琴の音が美しく響く。自分で演奏していてもこれほど綺麗に聞こえたことはない。
ふと、既に誰もいないはずなのに竹林を渡る涼風のような横笛らしき音が風に運ばれてくる。催馬楽(さいばら)の曲を試しに弾いたら、その笛も調子を合わせてくるのだ。
どうも、こちらへ参拝しに来た人らしい。でも、冬が近いし、双ヶ丘(ならびがおか)などに花見をしにくる貴族もいないはずだ。
ふと止めてみると横笛もぴたりとやんでしまった。どうしてか、あたしの琴の音にひかれて気分良くなって弾いていたみたいね。
まあ、あたしの下手なのを聞いているよりは自分のを吹いて浸ってた方がよっぽどいいだろうけど。
「そちらの笛吹さん。一体、どなたか声だけでもかけてくださらないかしらね」
好奇心で蔀戸の方から声をかけてみた。すると、笛の音色の代わりに低いのどの奥で転がすようなそのくせ、面白がるような忍び笑いが返ってきたのである。
「…いや、このような尼寺で風流な琴の音が耳に入ってきたものでね。珍しくてつい、合わせて吹いてしまったのですが」
その言葉が言い終わらない内に妻戸が開いているのをさらに開いて一人、誰かが片足を踏み入れて座っていた。別に驚きはしない。
けれども、苦虫を噛んだような感覚が体の中に広がるような心地だった。なのに、相手はにこやかに微笑みながら余裕そうな表情をしている。
そう、宰相中将だ。あの友成の実兄で二月くらい前の後宮に参内した夜にあたしに言い寄ってあらぬ振る舞いをしてきた男。どうしても、思い出したくなくて弟の友成を選んだのに。
その彼とも結局、恋破れて今のような状態になってしまった。あたしって、何で恋をしようとするとこんな風にして面倒な事になってしまうのか。
けど、宰相中将は一体どこからあたしの居場所を知ったんだろう。
「まさか、ここで出家をしていらしたとは。あなたは奇想天外な事をなさる。楽しませてくれるかと思えば、すぐに姿を消してしまう。どうして、私をお嫌いになるのです」
「さあ、どうしてでしょうね。よくは存じません。殿方が尼寺にいたと知れたらあなたさまの方が世情で変な風に噂されますよ」
「冷たい言い方だ。弟の友成があなたの事をひどく恨んでいますよ。義隆君が親友である友成にだけは出家をするためにあなたが安和寺という所にいると教えたそうでね。弟は情けないことに心労のため、出仕も休んで寝込んでいますよ」
「では、還俗をしろとでも。それはさすがに無理ですわ」
冷淡な態度で言ったら中将は忍び笑いをした。
その仕草は華がほころぶかのようにしっとりした風情のあるものだ。けれど、彼の美しい容姿を見たとしてもあたしは以前のように惹きつけられはしない。ただ、眺めるだけだった。
中将はまた笛を吹き鳴らしながら音もなく去っていった。
朝が明けて夜の出来事を別に人に話す気も起きない。朝餉を終えてから、勤行をする。
一心不乱に御仏に祈った。数珠をたどたどしく持ってただ、「もう二度と男が訪ねてきませんように。そしたら、あたしは二度と唐突な事をしないようにします」と。
それから、経文を書いた。息を静めて書き、難しい漢字も写した。
庵主様から歌が送られてきた。
〈優婆塞を記す道をも知らむとは
端の散りしかはかなき花ぞ
昨夜、不審な人影があったとききました。お気をつけください〉
気遣っておられるのか、庵主様は短く記してあるだけで長々としてはいらっしゃらない。その歌の花はあたしの事を例えておられるようだ。それでも、しみじみとした情感というものを詠み込んでおられるのがさすがだった。
返事を送った。
〈凍てつきぬ池面のごとし我の心
優婆塞もまだ知らぬやありか〉
とだけ書いておいた。
その後、あたしは経文を写し終えて別の紙に手習いをし始める。
〈光ありと思ひし雨の露ありき月の下より幻なりけり
あの時の公達、麗しくはあるけど。色好みな所が気に入らない。わたしの好みではないけど。
多くの女公達は悩まされる事でしょう、きっと。ひしひしと思われるし、公達はさまよい続けることとつい、想像してしまいます〉
紙にさらさらと書き述べた。
そうして、数日後に聞いた話では弟の義隆は今上帝のただ一人の皇女様と婚姻したとか。友成は出仕をし始めて、今でも兄とは険悪だとも伝え聞いた。
中将と女の事では争う事はないらしいけど。政務の方では妹姫の入内とかで諍いを起こしているそうだ。二人とも結婚の話はまだ、決まっていないようでどこぞの姫との縁談も耳に入っていない。
もう、思い出したくもないけれど、そろそろ夕刻が近づきつつある。いつか、日記を書こうか。
その時に昔の事を回想したい。
あたしはぼんやりと空を見上げて漠然とした思いを持っていた。千年後辺りには自分の名前など残っているわけではないけれど。
生き続けて、一人で見いだしてゆこう。本当の心の平安というものを。
それが達成できるかどうかもわからない。けど、迷ったりはしない、あたしはあたしでしかないのだもの。
決心は揺らぐかもしれないが生きるしかないのだ。
おわり
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