シスター・マーメイドの告解

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 まだファイナの故郷があった頃。  貴族の起こした戦争はたくさんの人を死なせた。国境の村々の老人、女子供、兵士となった男達。その中には、ファイナの父もいた。 「お母さん、どこいくの……?」  父の訃報が届いた日、ファイナの母は消えた。知らない男の人の名前を口走りながらパンと水だけ持っていなくなった。ファイナの家族は弟だけになった。弟はファイナによく懐いていたが、夜のおねしょだけは直らなかった。母に捨てられたことに苦しんでいたのだ。  そしてファイナが十五のとき、国は滅んだ。火国には新兵器があったのだという。  敵国の兵は略奪を行なった。虫のようにうじゃうじゃいる兵士達はファイナの家もやってきて、床板を泥のついた靴で踏み荒らし、辛うじて残っていたパン屑に舌打ちした。 「ここにあるのは女だけか……」  ファイナは弟を納屋の屋根裏の棚の中に押し込んで、隠した。だからこの家にはファイナしかいないことになっていた。 「連れて行け」  「了解しました、ライナー公爵」と兵士は敬礼した。兵士はファイナの美しい顔と躰を舐めるように見て、にやついている。しかしファイナはそれよりもごてごてとした白銀の鎧を身に纏う男をじっと見上げていた。胃の腑が灼けるような吐き気がした。この男達が、ファイナの世界を壊した。ぐちゃぐちゃにした。そして今、ファイナのことも……  ファイナは貴族が大嫌いになった。  透明に澄んだガラスのシャンデリアが蝋燭の火を反射してきらきらと輝いている。辺りには著名な楽団の落ち着いた演奏が響き、くるりくるりと回る女達のドレスがあちこちで花のように広がった。ペールブルーのマーメイドラインで着飾ったファイナは、スタッフからシャンパンを受け取り、しゃなりしゃなりと歩く。その背筋はぴんと伸びていて、腰は妖艶に揺れ、さばさばとした足運びには真っ直ぐな意思が現れている。  ファイナがこの夜の舞踏会に潜入するまでに、色々なことがあった。まず大きな商会を経営する男を捕まえてベッドに入り、下級貴族との繋ぎを作らせる。貴族は簡単には相手を信用しないから、そこからは女を使うことはなかった。数年前のファイナが密かにとある人の書斎に忍び込んで学んでいた様々な学術の見識を利用して──命懸けで吸収した知識は付け焼き刃なんて枠に収まらない──、頭のキレる利用価値の高い大人を装い、寝る間も惜しんで研究に勤しんだ。初めは懐疑的だった下級貴族も、ファイナにかかれば半年で首を縦に振る。ファイナはそういうことが得意だった。まあ、公爵や伯爵といった国のトップならこうはいかなかっただろうが。  かくして社交界に紛れ込んだファイナだったが、ここからが本番だ。ふう、と胸元のサファイアの冷たい表面に触れながら意識を怜悧にする。パーシヴァルを延命させるだけの技術を持つ医者は、この国では上級貴族しか繋ぎを持たない。汽車に上質なガラス、宝石。この国の繁栄からもわかる通り、上級貴族は一筋縄ではいかない者ばかりだ。持ち前の愛想と美貌だけではどうにもならないだろう。この夜の花園からつまみ出されてもいい。どんなに小さな可能性でも、大きなリスクを背負ってでも、掴み取らなければ。  ファイナが周囲に視線を巡らせ、カモとなる貴族を探していると──どんと後ろから誰かにぶつかられた。ぱりんと何かが割れる音が小さく響く。すぐさま振り返ると、小さな女の子がいた。そのAラインドレスは王宮御用達の品で、彼女の中に青い血が流れていることを表していた。 「あなた、庶民ね? 見かけない顔だもの」  小賢しそうな顔で意地悪く笑う。ファイナは頭を下げて口を噤んだ。 「……ふん。直答しない程度の頭はあるようね。どうぞ、お話してみなさい」  彼女の口ぶりからは、まるで庶民を猿か何かだと思っていることが窺えた。 「お初にお目にかかります。ファイナと申します。この度は──」  ファイナは少女のドレスの裾に付着したワインレッドの微かな汚れを見留め、跪いてハンカチーフを差し出す。 「──お美しいドレスに、大変なことを。申し訳ございません」 「庶民のハンカチなんて、そんな汚いものいらないわ。それより早く目の前から消えて。いいわね?」  ファイナは眉を寄せる。思ったほど、彼女は貴族らしくない。不思議に思って眼球だけで視線を上げたとき、彼女に近づく大柄の男性に気がついた。 「何があった?」 「……お、お父様!」 「人前では父上、あるいは公爵と呼びなさい」  「……はい」と項垂れる少女。そのとき公爵がこちらに目を向ける。二人の会話を聞きながら、ファイナはすんでのところで目線を下げた。  数秒して、公爵はファイナに「立て」と告げた。ファイナは大人しく従う。パノプティコンのような視線を感じた。公爵はスタッフに少女を控え室へ連れて行くよう命じ、少女が去ってから、改めてファイナに「顔を上げて何か話せ」と命令した。  ファイナはそうっと顔を上げた。艶のある革靴、のりの効いたスリーピース、厚い胸板に収まったブルーダイヤはファイナのものの数倍は大ぶりで、太い首に乗った雄々しくも美しい顔には見覚えがあった。ファイナは瞬時に損得勘定をする。そして淑やかな微笑みを唇にたたえ、眉を下げる。 「リューゲン公爵閣下、今晩は。お会いできて光栄にございます」 「そうか」 「わたくし、ファイナと申します。この度はお嬢様のドレスに粗相をしてしまい、申し訳ございません」 「ああ」  ライナー公爵は表面を微動だにせず凍えるような声音で話す。ファイナは心の底で煮え滾る憎しみを無視し、媚び諂った。リューゲン公爵。彼は、火国一と噂される医者の伝手を唯一持ち、そして、あの日のファイナを捕らえて戦争奴隷に堕とした男だ。  彼さえものにできれば、いや、ほんの少しでも興味を抱かせることができたなら、上々。相手の頭の片隅に置いた己の存在を大きくしていくことはファイナの十八番だ。この場は、とにかく爪痕を残す。いずれはあわよくばお手つきになれば少しくらいの情けを── 「なぜ奴隷がここにいる?」  息を呑んだ。ぞっとするような白い感情が背骨から這い上がり、ファイナの頭を空っぽにした。リューゲン公爵の無機質な目線が心臓を強く締め付ける。  覚えられていた? 気づかれた? どうして? 貴族にとって庶民は無限に湧く労働源に過ぎない。一人一人の顔を覚えているはずがない。なのに。…………また、捕まってしまう。  ファイナは息もしないで踵を返そうとする。大きく振ったその腕を、リューゲン公爵は危なげなく掴んだ。喉がキッと狭まって、視界が眩む。 「待て。……お前を逃してやってもいい」  ファイナは訝りながら振り返り、周囲がダンスに興じてこちらを見ようともしていないことを確認してから、「どういうこと?」と硬い声を出した。 「ひとつ提案がある。なに、難しいことじゃァない。もちろん返事はYesだろうな?」 「……はい、公爵」  「よし」とリューゲン公爵は数回頷いて、ファイナの手を離した。ファイナは鳥肌の立った二の腕の辺りを摩りながらキッと男を睨んだ。リューゲン公爵はファイナを瞳に映しているが、ファイナという自立した意識のある存在として認めてはいない、そういう目をしている。 「提案というのはだな」  リューゲン公爵は軽く手を払うような素振りを見せる。すると会場でダンスをしていた男女や給仕をしていた若い男などのまるで関連性のない有象無象が、二人の周りに壁になるよう自然に移動した。ファイナは冷水を浴びせられたような気がした。自分は、公爵(きぞく)の掌の上で踊っていたに過ぎない。  完全に孤立したファイナはリューゲン公爵を冷静に見据える。リューゲン公爵は満を持して、その内容を口にした。 「お前の主人に花を手向けて欲しい」  ファイナは未婚だ。主人という存在がいるとしたら、それは奴隷であった頃のご主人様に他ならない。 「それは、墓に行けという意味ですか?」 「いや、違う。線路だ。あの人が死んだ場所に花を手向けること。それがお前のすべき義務で、俺の命令だ。聞けるな?」  ファイナは一も二もなく頷いた。飛びついたと言ってもいい。そんな簡単な命令で解放されるのなら、それに越したことはない。何より、ファイナは脅されているのだ。  ファイナはリューゲン公爵に一礼し、すぐさま夜会会場を出て、下級貴族の屋敷でドレスを脱ぎ捨てた。そして乗合馬車に飛び乗る。行き先はもちろん、ファイナを買った老人の旅行先であるあの辺境の街だ。
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