シスター・マーメイドの告解

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「百でどうだ?」 「駄目ですぜ。こいつの価値は、千は下らない。他の奴を選んでくだせえ」 「わァったよ」  そうして、ファイナの側で腹を大きく膨らませた男児が売られていった。  牢獄は、四隅に蜘蛛の巣が張られ、じめじめとしていて寒い。重い首輪を握りながら冷たい石の床にぺたんと座り、毎日二回、獣の餌のように差し出される平皿のオートミールを食らう。戦争奴隷となったのは幼いファイナだけではない。何十何百という子供が同じ檻に押し込まれ、一人は売られずに命を落とし、一人は売られた先で殺された。識字や算術の技能のある者はそれなりのところに行ったけれど、幸福になったという話は聞かなかった。こうして、この檻に残されたのはファイナだけとなった。  ファイナは売り渋られていた。母から簡単な計算は教わっていたし、弟の前でお姉さんぶりたくて聖国から出張ってきた協会の元で字も学んだ。そして何より美しかった。十五のときはまだ身長が伸びていなかったのもあって、ファイナの容姿は男好きする女そのものだった。奴隷商人の前で猫を被っていたことも大きいだろう。大人しく言うことを聞く、可愛い女の子。ファイナは商品として言うことなしだった。  十六になって、ようやくファイナの買い手が見つかった。国一番の金持ちの老人だ。そこで一年ほど老人に愛玩された。娘のように大事にしておきながら、夜はやることをやって、使用人には笑いものにされる。そんな生活が続いた。 「君みたいに綺麗な子は他に知らないよ」  老人はそう言って、他の奴隷を捨てた。ファイナは痛いほどに穴を抉られているのに、どこか清らかに見えるのだという。ファイナは女の才能があった。知らなくていい才能だった。  昼間は自由だった。老人は妻と散歩に行ったり、昼食を摂ったりしている。ファイナはその間離れに軟禁されている。その時間だけがファイナの薄暗い希望だった。老人が死んだとき、ファイナはまた誰かの奴隷になる。そのときも良い扱いをしてもらえるようにたくさんの価値(ねだん)を手に入れなければならない。そして夜、ファイナは大きなベッドの上で、首輪を外して寝かされる。老人は男の象徴がほとんど勃たないから、欲望は満たされず、常に目をぎらつかせていた。老人は妻を愛している。だから、ファイナは愛の中から零れ落ちた薄汚れた感情のはけ口にされる。  ある日、老人が妻と旅行に行くことになった。その頃にはファイナの首輪はほとんど常に外されていた。ファイナは離れで学術書の頁を捲った。傍らには恋愛小説があって、ファイナは苦しくなったときだけそれを読んだ。やがて日が落ちた。何度も空は明るくなって、暗くなった。ファイナはベッドで一人で眠った。久方ぶりの熟睡で隈も取れて、奴隷とは思えない健康体に戻っていく。 「聞いた? 汽車の事故で……」  使用人の世間話を耳にしてすぐ、ファイナは屋敷を抜け出した。老人は死んだ。ファイナの首輪は無くなった。なら、ファイナはもう人間に戻れる。  百九十近い美しい女が馬車から降り、御者に銅貨を手渡す。ぱしんと縄を打たれて馬が歩き出す。馬車がいなくなってようやく、ファイナは白い帽子を脱いだ。 「──おねえちゃん?」  そこで、ファイナは弟と再会した。  ファイナは近くのカフェに入った。水煙草を借りようと思ったが、弟の手前、やめておいた。弟はアイスカフェオレを二つ頼み、席に座る。 「会えて嬉しいよ。僕のこと覚えてるよね?」 「うん、もちろん。私の最愛のエリオット。ああ、無事でよかった……!」 「えへへ」  エリオットは水滴の浮いたグラスを揺らし、氷をからからと鳴らした。それから喉を鳴らしてカフェオレを半分ほど飲む。大きな喉仏が浮いて、ファイナは時の流れを感じた。  「僕、この近くで郵便を届けてるんだ」と嬉しそうに話す弟の目元には茶色い隈が色濃く刻まれ、真っ白だった鼻にそばかすが浮いて、痩けた頬にもいくつかしみがあった。 「ちゃんとご飯食べられてる?」 「まあまあだね。でも元気だよ、おねえちゃんに会えたから!」  エリオットはとびきりの笑顔を浮かべた。それはファイナがお姉さんぶって文字を教えてあげたとき、「おねえちゃんはすごいや!」と笑ったときの顔とおんなじだった。  あれから大変な人生だっただろう。植民されるあの村から抜け出して、火国の民に紛れ込み、生きていく。もしかすると最低限の食事を与えられる奴隷よりも死にやすい環境だったかもしれない。老け込むのも当然だ。それでも、エリオットはいま笑っている。ファイナはそれが嬉しくて、顔を綻ばせた。  それからファイナ達はこれまでの時間を埋めるようにたくさん話をした。あれから変わったこと、変わっていないこと、嬉しかったこと、悲しかったこと、大変だったこと、意外と頑張れたこと──。カンカン照りだった外はいつの間にか日暮れになって、カフェの戸を開けると、光の薄い青空が出迎えた。 「じゃあ、おねえちゃんは用事があるから、ここでバイバイだね」 「用事ってどこに?」 「え? 北の、線路の方だけど……」 「僕もそっちに用があるんだ。一緒に行こう?」  エリオットはファイナの手を握り、歩き出す。ファイナは釈然としなかったが、彼女にはまだ誰かの命令に従う癖が残っていた。黙ってついていく。  しばらくの間、二人で線路沿いを歩いた。風が気持ちよかった。草木が揺れる音が耳を癒やし、互いの体温が心を温めた。  地面がざらついた砂からしっとりとした雑草に変わる。ファイナは立ち止まり、ポケットから地図を取り出して、バツ印を指で追いかけた。この先に木々の生い茂る森がある。そこで、あの老人は脱線事故で亡くなった。 「もうそこだから、エリーは帰っていいよ」  ファイナはエリオットの手を離し、くすりと笑う。 「本当は用なんてないんでしょ? 相変わらずおねえちゃんを驚かせるのが好きだね。もう、甘えん坊さんなんだから」  しばらく何の音もしなかった。エリオットは俯いている。ファイナが口を開こうとしたとき、弟が顔を上げた。 「どうして逃げるの? 今度こそ一緒にいられるのに」  ファイナの笑顔が凍りつく。「え……?」と思わず呟いてから、ファイナは表情を取り繕って弁明した。 「逃げるとかじゃないよ。さっきも話したでしょう? おねえちゃんは奴隷なのに逃げ出してしまって……あのね、実はある人にそれがバレちゃったの。だからエリーがおねえちゃんの弟だって知られたらエリーまで捕まっちゃうかもしれない。それは嫌でしょう? だから、ね、良い子だからバイバイしよう?」 「──じゃあ二人目だね」  早口に説明したファイナだったが、エリオットの言葉に口を噤む。得体のしれない恐怖がファイナの鼓動を速くする。  二人目? 二人目って…… 「何が、二人目なの……?」 「姉さんのために殺すケダモノの数だよ!」  「……は?」ファイナは自分の息が浅くなっているのを感じた。エリオットを見下ろすと、エリオットもまたファイナを見つめていた。なぜかどきりとした。いや、もうわかってしまった。ファイナはエリオットが怖いのだ。  だけどエリオットはファイナに愛されていて、エリオットもファイナのことを愛している。だからファイナの動揺は彼にも伝わってしまった。 「どうしたの? 何か怖いの?」  エリオットはファイナの頬に手を添えて、さらりと撫でた。硬い皮がファイナの柔らかな頬に薄い傷をつける。 「怖いものは僕が全部無くしてあげる」  「おねえちゃんは優しくて弱いんだものね。だから僕は、きっとここにやってくるはずだって思って根城にしていたんだけど……」とエリオットは顎に手を当てて首を傾げる。彼は本当に、自分の犯した罪の重さを理解していないようだった。 「安心して。もう、守られたりしないよ」  エリオットがファイナをぎゅっと抱き締め、頭を撫でた。ファイナは身を固くしている。愛しいのに怖い。頭の中がぐらぐらとして、何か重大な天秤が軋んでいるのを感じた。  ファイナの速すぎる鼓動に、エリオットは頬を緩める。 「よかった。あんな(ジジイ)に股を開いたせいで綺麗な姉さんが汚れちゃったと思ってたけど、そんなことない。姉さんは綺麗なままだ!」  その瞬間、ファイナの意識が戻った。腕から溢れた花束が地面に墜落するより速く、拳を握って振りかぶる。 「っあぶないなぁ……」  殴りかかったファイナの手を掴み、エリオットは困り顔だ。ファイナは息も荒く痛いほどに拳を握った。切り揃えた爪が肉に食い込み、赤い血が流れる。鉄臭さが花の匂いと混じって胸が悪くなる。 「おねえちゃん、怖いよ。急にどうしたの?」  エリオットは困ったように微笑みながらも、目の奥は笑っていなかった。手首を掴む力が強くなっていく。 「それとも……もう、おねえちゃんは──」
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