シスター・マーメイドの告解

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 そのとき、遠くで汽笛の音がした。横の線路に汽車が通りかかる。それは馬車とは比べ物にならないスピードで、ファイナの長い髪を鋭い風が揺らした。耳がきんとなる。  瞬間、汽車の最後の車両から何かが飛び出してきた。その何かはエリオットに飛びついて下敷きにする。ハイヒールが宙空に跳ね上がり、漁船の上にいるかのように水気と鱗がビチチッとファイナ達に降り掛かった。汽車の白煙はファイナの視界と嗅覚を遮るが、その“何か”が魚に縁のある人間で、二人が揉み合いになっていることはわかった。 「いってぇ、何すんだテメエ!!」 「アタシの、に、手ェ出すんじゃ……ないわよ……!」  「パーシー!?」とファイナが素っ頓狂な声を上げた。パーシヴァルの声音には可笑しな音階と節がくっついていて、ファイナは何重にもびっくりした。  二人は殴り合いをやめ、ファイナを見上げる。 パーシヴァルの方はケンケンと咳をしている。無理が祟って身体が言うことを聞かなくなったようだ。しかし、エリオットはそうではない。伽藍堂の瞳は痛いほど見開かれ、ファイナを映した。 「ァんだよその妙な男女(おとこおんな)。……おねえちゃん、違うよね? おねえちゃんはまだ僕だけのおねえちゃんだよね?」  まるで二重人格だ。ファイナは意表を突かれ、何も言えず唖然とする。しかしそれは悪手だった。  エリオットはふらりと立ち上がり、懐に手を入れる。そこから覗いたのは銀色の輝き。ペーパーナイフだった。 「……やっぱり、そうなんだ」  ゆっくりとファイナの胸にナイフを向ける。 「おねえちゃんは貴族の犬になったんだ! 男に媚び諂って、平気で笑ってる、売女になったんだ! おねえちゃんじゃないおねえちゃんなんていらない! ああああ!!」  それは悪夢のような光景だった。弟がナイフを振り翳し、ファイナの胸に突き刺そうとするその瞬間が、コマ送りのように流れていく。ファイナには逃げる隙もなかった。パーシヴァルは蹲っていて、立ち上がる力もない。確実な死がファイナを襲う──  パァン、と乾いた音がした。それからどさりとエリオットが倒れ、肩からどくりどくりと真っ赤な血を流した。  ファイナはぱっと顔を上げた。手前の林から衛兵が現れる。その奥には彫刻のような顔のリューゲン公爵が見え、「捕まえろ」と一言告げた。衛兵は息を合わせて返事をし、エリオットに群がる。ファイナは我に返って弟に駆け寄ろうとした。それを衛兵達が邪魔をする。 「やだっ! やめて! エリー、エリー!!」 「死にはしない。被弾したのは肩だ。運の良い奴め……」  リューゲン公爵が暴れるファイナの首根っこを掴み、衛兵達をエリオットのもとへ戻す。ファイナはしばらく呆然としていた。弟が撃たれた。弟が倒れた。衛兵が弟を捕まえに来た。弟は、まだ生きている。 「……よかった」  ほっと息をつくと、リューゲン公爵はファイナを地面に下ろす。衛兵達の隙間からエリオットの片方の手首に手錠がはめられるのが見えた。金を持たない犯罪者の未来は決まっている。エリオットはファイナを助けるために、犯罪奴隷になる……  そこで、ふと気がついた。ファイナは顔を真っ青にして周囲の地面を見回した。ナイフがない。リューゲン公爵が持っているのか? そう思って顔を上げた、まさにそのとき、公爵の背中にナイフを突き立てようとするエリオットを見てしまった。今度のファイナの視界はスローモーションにならなかった。咄嗟に立ち上がった際の足の筋肉の痛みと、肩口に侵食する金属の熱さと、驚いた公爵の声、それから何かが弾ける音が連続で聞こえた。  ファイナが目を開けたとき、ファイナはエリオットに押し倒される形で地面に背中から倒れていた。エリオットの身体は驚くほど重たかった。やけに衛兵が静かだ。ファイナはずるずると身体を後ろに動かして、自分の腹の上にうつ伏せになって倒れ伏すエリオットに「エリー」と呼びかける。返事はなかった。ファイナはエリオットを抱きしめる自分の腕がなぜか真っ赤になっていることに気づいた。エリオットを改めて見下ろした。背中に、無数の穴が空いて、そこからとめどなく血液が漏れ出している。 「はっはっはっはっ……」  ファイナはエリオットを助け起こし、重たい頭部を膝の上に乗せた。エリオットは眠っているようだった。手にはナイフを握り、辺りの草を赤く染めながら。 「はっはっはっはっ……、…………ああ……!」  ファイナはエリオットの握るナイフを取り上げた。刃先を自分に向け、喉元を搔き切ろうとする── 「やめろ!」  ファイナのやることはすべて誰かに邪魔される。いつも、そうだ。  ファイナの持つナイフから血が滴った。青くない、普通の血だ。リューゲンはナイフを握りしめてファイナを怒鳴りつける。 「お前はなんのためにここに戻ってきた!! 思い出せ、ファイナ!!」  ハッとなった。ファイナが唯一、出来ること。もしかしたら上手くいくかもしれないこと。なんとしてでも、誰に止められても成し遂げないといけない、大事なこと。大事な大事な親友のこと。  足音がした。ざっ、ざっ、と摺り足気味の、力無い摩擦音。それから小さな影が差した。ほとんど沈んだ太陽を遮って、パーシヴァルはファイナの側で膝をつく。そして弱々しい力で抱き締めた。ファイナの身体の力が急に抜けて、パーシヴァルの胸に寄りかかってしまう。 「……アタシ、先に死ぬのは自分だと思ってた」 「……ごめん」 「いいの。死にたいときってあるわよね」 「パーシーもあるの?」 「ええ。ご飯がないとき、寝る場所がないとき、仕事が見つからないとき、あとは……恋が実らなかったときとか」  くすっと冗談のように言われたが、ファイナにはそれが本気に思えた。そしてふと思い出す。 「……さっき、私のことを“大事なコ”って……」  「きゃっ!!」とパーシヴァルが顔を真っ赤にする。それがあんまりにも可愛くて、ファイナは、心に残ったひとつの感情を思い出した。 「ごめんなさい、好きだなんて言うつもりはなかったの。うっかりしてたわ。馬鹿ねアタシ……」  けんけんと咳をしながら、パーシヴァルは自嘲的に笑う。呼気から海の匂いを感じた。噎せ返るような死が掻き消されていく。ファイナはその薫りに吸い寄せられるように、パーシヴァルの唇を奪った。深く、深く。 「んんっ!?」  十秒、二十秒、三十秒と甘い時間が過ぎていく。パーシヴァルの舌の筋肉の突っ張りが緩んだとき、ようやくファイナは唇を離した。ファイナの口内に潮の味が残っている。 「なんてことするの!! ああ、どうしましょう。あなたが死んじゃう……駄目だわ、か、神様……!」  パーシヴァルは半狂乱になって祈るように手を組んだ。ファイナは色気のない慌てっぷりに噴き出して、その土気色の額に中指を弾いた。でこぴんだ。キャン、とパーシヴァルが鳴く。  それから「何するのよ!」と睨んできた彼に、ファイナはにーっと笑った。 「もう治ってるよ」 「え?」 「私、パーシーのことが好きだから」  パーシヴァルはしばらくぽかんとしてファイナを見つめていたが、やがてフッと糸が切れたように倒れた。眠り姫のようなその面差しからは、まるで魔法が解けるみたいに、ゆっくりと宝石のような鱗が剥がれて元の白い肌が見えてくる。  ファイナが大慌てでパーシヴァルを起こそうとする。リューゲン公爵が頭の痛そうに額に手を当て、衛兵は困惑したように顔を見合わせている。  まだ明るさの残る空に小さな星が瞬いた。
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