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結局、店に再訪するまで、ちょうど半年ほどになってしまった。
高額紙幣が十枚と、プラス数枚。
ここまでくるのに、だいぶとかかったような気がする。
割に合わない仕事もして、同僚の尻拭いの残業代がちょっとずつ増えていて。
家に回してほしいと言われた額のちょっとした余剰をためるのに、それだけの時間がかかったのだ。
けれど、それだけ出す価値はあると思った。
商品がなくなってしまうおそれもあったけれど、またその店に行けば「今買うんですか」と聞かれそうでなかなか足が向かなかった。
果たしてそれはそこにあった。
半年前とほぼ変わらず、ショーケース内のほかの商品は入れ替わっていたのに、求めた手帳はまだそこで穏やかに鎮座していた。
店員は自分のことを思い出したのか、そうっとショーケースの内側から、バインダーを出してきた。
白い手袋と、黒革のコントラスト。
見とれている自分に、店員は声をかけてきた。
「大事に使ってくださいね」
「え?」
当たり前のことを、なんで、と思って目を上げれば、その店員はどこか熱い視線で自分のことを見ていた。
「それ、先代の置き土産なんです」
「はあ……」
「大事にしてくれる人がいたら言い値で売れ、と引き継いだものなので、無事に渡せてよかったです」
にこにこと笑う店員は本当に嬉しそうだった。
そういえば、店名と名字が同じだ。けれど、その先代が存命かどうかはあえて聞かなかった。なんとなく、野暮だと思ったからだ。
なにより、なんとなくいいものを感じたことを大事にしたかったのだ。
誰かの使った履歴と、自分のこれから。
ユーズドだったということも驚きだったが、丁寧に手入れをされていたのかそれほど傷はない。多分自分ならもっとひどいことになっていただろう。
「……大事にするしか、ないでしょうが」
そうは言ったものの、普通に使えばいろいろな所が痛んでくる。
自分でメンテするにも限界があるが、どうにもあの店に行くのは気が引けてしまって、ネットや雑誌の手入れ方法で急場をしのぎ続けていた。
実際、そういう手入れも怠っていたかもしれない。
自宅のあれやこれやはすべて配偶者に任せきりで、自分勝手に過ごしていたようにも思う。
手帳を手入れするように、小物から手入れをして、片付けるようになった。
予定もせっかくだからと書き漏らさないように丁寧に書くようにした。
正直、どうにもならないこともあったが、そんな時に過去の履歴が自分を助けてくれた。手帳効果というやつかとも、思った。
そうこうしているうちに、革はなじんで、自分は昇進して部下がさらに増えた。同期では最速だという。手帳のおかげと言いたくはないが、どうやらそれだけの価値を見いだせるようにはなってきたらしい。
「その手帳、素敵ですよね」
「え?」
「よく手入れされているなと思いまして」
自分のは買いたてで、と取引先の相手から見せてもらったものは、まだつやの出るまえの、同じサイズの手帳だった。違うのは、背面の縫い方だろうか。メーカーなんかもあまり詳しくない。
「結構つかってたんでしょう?」
「え……ああ、まあ」
「この型番のって、マニアが多いらしくて。再版にはならなかったけれど、こうして形だけは同じものが出ているくらいには人気なんですよ」
「へえ」
聞けば生まれ年の頃に初めて発売された型番らしい。
それ以来、ヘビーユーザーに細く長く愛用されているとかいないとか、自社製品よりも熱く語る取引先の社員に、なんというか、畏怖のような何かを感じたのは言うまでも無い。
ますます、愛着がわいてくるではないか。
思わずそれを撫でた。
今の自分に確認する術はない。
けれど、自分は同じ年月を別のところで歩んできた手帳を、これから先の時間だけでも一緒にいたいと感じてしまった。
帰宅して、ちょうど夕食の準備を済ませていた家族に言う。
「あのさ、この前買った手帳なんだけど」
「うん」
「聞いたら結構昔からあるシリーズでさ」
「そうなの?」
それで、あれでと今日取引先に聞いた手帳についての話をした。
ちょうど、記念日が来週に迫っていた頃だというのも相まって、思いのほか話が弾んでしまった。
見せられない部分は一時的に外して、それ以外の、譲られた部分だけを相手に渡して見せた。
正解はわからないけれど「夢のある話だね」ときらきらした目を向けられた。いつぶりかわからないけれど、きちんと顔を合わせて、お互いに同じものをみていられた気がする。
日記を付けるタイプではないが、一人の時間になって、白紙のカレンダー用紙の隅に、今日の出来事を綴った。
走り書きのボールペンの字が、どんどんゆがんでしまったけれど、気にしない。いつか忘れたころに、自分が今日の一部を思い出すためのトリガーだ。
自分だけがわかればいい暗号と思えば気が楽だろう。
宝箱のように厳重ではないけれど、こうして束にしておけるだけで癒やされる。
これから先も、また隣を歩いてくれる相棒を、身近な世界を、大事にしていきたいと、自分はまたペンを走らせたのだった。
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