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朝起きて、昨夜の出来事ははっきりと明確に覚えていた。
騒音にパニックになってベッドから落ちるだけでは足りず、耳を壊そうなんかして。隣の患者さん、架絃さんを混乱させた上、挙げ句の果てにはそのまま寝落ち、というより失神してしまうだなんて。
とんだ迷惑患者だ。あまりの不甲斐なさに、思わず顔をしかめる。
……でも。
片手でそっと耳に触れる。ぐずぐずの傷だらけなのは変わらないけど、前と変わらずすべての音を拾ってくれている。
とんだ迷惑をかけた、けれど、もし彼が気づいてくれなくて、止めてくれなかったら。
考えると、音楽を愛するわたしが震え上がる。
……それに。
あんなふうに誰かに弱みを見せたのって、いつぶりだろう。
「……はあ…………」
妙に顔が熱かった。きっと、恥。
恥ずかし、かった。真っ暗闇の中の、隣の彼、謎めいた架絃さんの優しくて甘い声を思い返して、頬の温度が徐々に上がっていくのを感じた。
さっと片手の甲で右頬に触れる。きっと真っ赤になっているが今は誰に見られるでもないし、いいよね。
とにかく、後で謝らないと。あと、今度こそきちんと説明しなきゃ失礼だ。
彼は初日から勘づいていたと思う。ああでも、それでも、嫌だな。
音でパニックになることを、昨日の恐怖を思い出すと、それだけで息が段々苦しくなる。
……っ、だめだ、今はだめだ。
今は忘れよう。見ないように、見ないように。
必死に意識を逸らしていると、ふと思い出されたのは夢だった。寝るときに見るほうの。
今日のはいやに鮮明に覚えていた。
あれは何年前だろう。基本的に夢には記憶を見る私だが、あれは、忘れたままでいたかった。あの匂いは、あの色は。
「……コンクール」
その夢のせいで嫌でも考えてしまうのは、出場するはずだった夏のピアノコンクールについてだ。
わずかな期待として、その当日までに退院できる可能性は、なくはなかったのだ。でも出場は絶対に叶わない。練習が全然できてないとか、そういうことじゃなくて。
無理だ。事故後に周りにわがまま言えるわけないし、足が思うように動かないからペダルを踏めないし、何より、演奏音にきっと耐えられない。
だめだったんだ。イヤホンで音楽を聞いただけで、吐きそうになったんだから。
私は事故後、音を聞いてパニックに陥るようになってしまった。
対象はすべての音だが、特にまずいのはこれら。
ひとつは大きな音。または大きく突発的な音。心臓をひと刺しする恐怖の音だ。
そして、長く続く音。じわりじわりと蝕んで喉を締め付ける。
音が綺麗とか耳障りだとか、そんなの関係なくある種平等にすべてを拒絶してしまう。
……長く続く、音。
そう、今の私は。
音楽すらも受け付けない。
「………………………………」
あの子はきっと今年も出場して、あの真紅のドレスでホールに花を咲かすのだろう。
知らぬ間に唇を噛んでいたようで、血の味がした。
「夏音さん」
白いカーテンの向こうから架絃さんの声がして、勝手に背筋がのびる。
「開けていい?」
布の端があっち側から掴まれたのか一瞬揺らぐ。
「……だめ」
「え」
「だめー」
ちょっと、この顔を彼に見せる勇気はなかった。夢やコンクールのことを考えて落ち着いた、落ち着いたとは言えないけど、まあ温度は下がったこの頬が、名前を呼ばれただけで元に戻ってしまったから。
だとしても誰かの望みを自分の都合で却下できるのは、彼と一期一会的な関係だからなのだろうか。いつもだったら私はそんなことはしないしできない。どうせお互い、ふりじゃなくていつかは本当に忘れるだろう関係だから、こんなこと言えるのか……な。
厚いカーテンが私達を隔てるまま、彼が何か言う。
「今日はちょっとだけ晴れてるよ。もうすぐ梅雨明けるかな?」
私は枕を顔に押し当てて自分の声を緩和した。
「さあね。窓側なのいいな」
「外見たいの? 開けようか?」
「ちょっそれはだめって」
冗談だったようでくすくす笑われる。まじと受け取ってしまったのがかなり恥ずかしくてもっと見せられない顔になった。表情は作り出せても、顔色って誤魔化せない。
音楽みたいだ。技巧を凝らすことはできても、音色は誤魔化せない。
「……あ、の、架絃さん」
「なに?」
だいぶ落ち着いたから、昨日の弁明と謝罪をしようと思った。
「昨日のこと、なんだけど。あの、私……」
「……ああ」
カーテン越しに聞こえる淡い声。
「いいよ。何も……何も見なかったことにする」
「……え?」
「君だってそうしてたじゃん」
「そんなこと……あ」
思い当たる節はあった。謎の同級生、西町さんの来襲の後だ。そうだ、あのときの状況からして、彼も何かトラウマを……?
「だからいいよ。僕は何も知らない。何も見てない」
「……そっか」
病室にまた静寂が戻る。その無言が、今は清い泉水のように心地よかった。
その水に光の帯の流すような自然さで、柔らかい鼻歌が聞こえた。耳は塞いでいなかったけれど、やっぱり怖くて手が勝手に動いた。
「その曲……」
「……っあ、あ。うるさかったね。……ごめん」
いつのまにか、と彼が呟く。どうやら無意識に歌が唇からもれていたようだ。意外と無防備なところがあるのかもしれない。食べながら歌う癖のある私よりまともだけれど。
……いやしかし、その曲って。
「……ピアノ?」
「うん? ごめん、何か言った?」
「あ、いや、何も!」
聞こえるように、一瞬だけ枕を口から離して返す。
彼の鼻歌は、よく私がピアノで弾いていた曲だった。弾いているだけで無心になれるような、歌うだけでも心が凪ぐような、綺麗な水みたいな曲だ。
私も何かと心が揺らいだときの薬みたいに、弾いたり歌ったりしてた。
音楽で揺らいだときの特効薬が音楽。
なんだそれ、夏音やば。そんな空耳が聞こえたような。……気のせいだろう。
向こう側からの声もしなくなったので、ブルーのスマホを手に取り起動してチェックする。院内だから音を切っているそれを1日に2回確認するのはもう習慣になっていた。
母の名前で数件のラインが来ている。一応見てみたが案の定、これを送ったのは母自身じゃない。ひらがなだらけのこの文はまあ確実に琥春のものだ。
ふっと笑ってから心配がこみ上げてその笑みも消える。琥春もだが特に懸念されるのは采雪だ。また何か馬鹿をやってなければいいけど。
水色のトーク画面をささっと操作して閉じる。他の連絡は何も来ていなかった。
側面のボタンで電源を切ると、黒々とした画面に仏頂面の私が映った。
毎日見てきたはずの自分の顔が、日に日に自分じゃないように、見えてくる。
私じゃない。こんなただ白いだけの部屋に閉じ込められているのは。
音を怖がるのは、音楽を聴けないのは、そんなの私なんかじゃ。
「……大丈夫?」
「……え?」
「何かこう、さ……」
声が濁り、んん、と軽い咳払いが聞こえる。
「何があったかはわからないけど、その……苦しいことは破裂する前に、ね?」
「…………………………」
さっきの約束をほんの少しだけ踏み越えた彼の言葉に、何も言えなかった。
苦しいのは私じゃないと思うからだ。
伊吹くん、鳴間、ふたりの妹、両親。クラスメイトや部員たちなど、私が務める役をリーダーとしていた人達。
私がいないせいでみんな、大変だと思う。
何も知らない架絃さんは悪くないんだけど、何も言葉を返せなかった。
彼ももうこれ以上は何も言わなかった。
この日はそれからしばらくして、病室にお見舞いの人がやってきた。私にではなく隣の架絃さんに。
また同い年くらいの女の子だったので、この人って……と引きかけたがすんでのところで真実に気がついた。聞こえてきた会話の中で判明した彼女の正体は妹。
さばさばした妹さんは用事を終えるとさっさと出て行った。
学校からの課題わざわざ持って来やがったな、と隣で彼は嘆いていた。課題が出されるほどなら、彼は病気の手術とかでの長期入院だという可能性もあるな。あれ、でもここ怪我とかした患者の病棟じゃないっけ。怪我でもそういうのはあるのかな。わからない。
よく知らないことについて特に深く考えることもなく、来客中恐怖で引きこもっていた掛け布団から出て伸びをした。
ああ、シーツも枕も全部白い。こんなに白にこだわらずひとつくらい他の色を入れればいいのにと思うが、青にこだわる私に言われたくないかもしれない。
夕方にまたスマホを確認して、その後の夜に騒動が起きることもなかった。
すぐに寝付けない私は、誰にも見られてないからと、いつ来るかわからない騒音に怯えていた。怯えた顔なんてしちゃいけないと正気なときは意識していたので、感情のままに表情を作ると逆に違和感を感じた。
私の恐怖に相反し、昨日の混乱が嘘のような静夜だった。ただ、お隣さんの静かな寝息だけが聞こえていた。
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