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 私はその、素朴な音が好きだった。  限りなく真っすぐで透明な音。ステージの照明が似合う情熱的な原曲と違い、木漏れ日に寄り添うような温かさの旋律。誰に聴かせるでもなく自分の心に染み込ますような生真面目なリズム。ぬくもりの中に絶対的な強い清らかさがあり、その芯が私は好きだった。  いつの日か、この歌を木々の中で歌っていたような気がした。 「カノン」  ふと声がして振り返る。その顔と手招きを見て、曲名ではなく私を呼んだんだとすぐにわかった。 「夏音(かのん)、戻ろー」 「はーい」  名残惜しく思いながらもピアノの鍵盤から手を放す。黒く艶のある蓋を優しく閉めて、天蓋に乗せられた出席簿を回収する。入り口で待っていた友達と共に、迫る次の授業のため音楽室を後にした。  今、もし家だったならカノンなんて弾いてる場合じゃない。コンクールに出るならばその分気合いを入れて練習練習。  だけどまあ、たまにはピアノを息抜きにするのも悪くなかった。 「ピアノの息抜きがピアノってなんだそれ。夏音やっば」  そんなことを言われてしまったので、これからは口に出さないこととしよう。ピアノ熱血アピールと捉えられてしまっても面倒くさいし。 「でもさ、あんまりピアノばっかやってたらあれじゃない? 夏音これから忙しいっしょ」 「でも今年は絶対コンクール出ないといけないんだよね。まあピアノは私の都合だし、他の仕事をおろそかにするつもりはないよ」  マルチタスクはもともと得意なほうだ。それに全部好きでしていることだし、私にしかできないことも中にはある。だからそこまで苦には感じていない。  それよりも、この幼馴染の過度な心配への対処が面倒だったりもする。もう何年の付き合いだろうか、私はそこまで心配するほど弱くないと経験上わかりそうなものだが。しかしこの子はそもそも心配症なのだから、そのことを正面切って言う気もない。 「鳴間(なるま)は夏、何かすんの?」  名字呼びは2年目でもまだ違和感がある。別にキラキラネームとかなわけじゃないのに本人がやたら下の名前を嫌っていて、高校からは名字で呼べと命令されたのだ。その甲斐あってか現在彼女を下の名前で呼ぶ人はだれも居ない。まあまずこの人全然友達いないんだけど。 「わたし? んー部活以外は、ボランティアとかかな! 今のうちやっとかないと推薦とかやばそうだし」 「推薦受けるんだっけ?」 「わかんない」  わかんないんかい。 「夏音ってさぁ、学校にこき使われて時間全然ないでしょ。後々大変だよ? 自分のしたいことをちゃんと言わないと」  したいことを全部引き受けてるんだけどな。 「大丈夫だって」 「いつもピアノと部活ばっかりだし、後から勉強頑張ってももう追いつけないよ」 「おーおー中間1位の私にお説教ですかい?」 「うっわこれだから夏音は」  これだから、じゃない。易々と上位を取ってしまっても誰も驚かない環境に私がいるだけだ。  県立平山高等学校。偏差値は普通科55、特進科60。進学校を謳っているが、実際は堕落真っ盛り。この偏差値も疑わしい。 「わっ夏音様やん! なあこっち向いて!」 「何? うるさい」 「1位様の写真待ち受けにしたら成績上がるって言われてんの」 「気色悪いからやめてくれ。ていうかスマホ出さないでよ、没収されても知らんぞ」 「先生もう諦めてるって!」  ちなみに中学3年当時、県の生徒がみな受ける地区テストの私の偏差値は73。余裕で県内最高峰の高校(と言っても、田舎だし全国の進学校でいえば最下層なんだろうが)に合格できるレベルだった。それなのに私は平高を志願したため、校内テストで1位を獲れても至極当たり前なのである。 「はあ、ほんと治安悪い。頭良いのに夏音ってまじ何でこんな高校来たの?」 「何度も言ってんじゃん部活だよ部活。てか、鳴間ももっと上行けたっしょ」 「ええ? そりゃそうだけどこっちのほうが家近いしさ」  鳴間が平高を選んだ理由は知っている。県立にしては制服が可愛いのと、あと私がいるからだ。  人でごった返す廊下を無理やり進む。この高校は広さの割に生徒数が多すぎる。  すれ違う人はほとんどが夏服姿、でもまだ夏じゃない。窓の外ではしとしと雨が降っていて、これを越えれば本格的な夏が来る。  夏。はたから見れば私は、とにかく忙しいようだ。  一応は進学校、2年生ともなればもう受験を見て見ぬふりしてはいられない。2年の夏は大事だ。いくら学年で1位といっても外と比べればてんでだめなんだから、さすがに本腰を入れて勉強しなければならない。  それに加え、私は所属する吹奏楽部の次期部長となっている。勉強は堕落気味でも部活は強い平高だ。吹奏楽部も例に漏れず県トップクラスの実力を持っている。3年生が抜けても50人近くいる部員をまとめるのには並大抵の努力じゃ足りないだろう。ちなみに、鳴間も吹奏楽部で、次期副部長だ。  そして次はピアノ面。先程言っていたピアノコンクールに加え、私は合唱の伴奏者でもある。夏休み開けに行われる文化祭での一大イベント、クラス対抗合唱コンクール。高校ともなるとやはり伴奏のレベルも馬鹿にならない。しかしこれは自ら立候補したことで、特に楽しみなことでもある。腕が鳴る。  改めて数えてみるとそうでもないな。確かに仕事は多いけど、やりたいことや楽しいことが大半を占めている。頑張ろうと思って頑張るようなのは勉強くらいだ。  とにかく、忙しいって、退屈を感じないって、最高じゃないか。  そう何度も何度も言っているのに、授業がひとつ終わるたびに鳴間は早口でまくしたてる。いい加減鬱陶しいな早く1年の後輩のとこにプリント持ってかなきゃいけないんだけど、とため息をついていると、他の友人が苦笑いで口を挟んだ。 「夏音さんはさ、上手だから大丈夫だと思うよ。パンクしないようにちゃんと仕事流してくれるし」  でも大変だったら言ってね、と何とも優しく助け舟を出してくれたその友達は、伊吹(いぶき)くん。黒縁眼鏡の奥の温かい瞳に「うん、ありがと」と笑いかけたら「しかし夏音さんは働き者だよな」と独り言のように言われた。  彼は少し、なんか恥ずかしいんだけど、自分で言うのもあれだけど、私を尊敬してくれているところがある。(本人から聞いた)。  伊吹くんとは、鳴間ほどはないけど付き合いが長い。交友が浅い人なら慣れているけど、友達にそういう風に見られてるのはやっぱりなんか恥ずかしいし、こういう呟きはいつも聞こえてないふりをする。伊吹くんはにこにこしていた。  鳴間と伊吹くんというふたりの親しい友人や、リーダーとして私を受け入れてくれるクラスメイトや部員達。何かと頼ってくる先生たちや、学校に多くいる私を知ってる他の人達。そんな人達と共に、私は忙しくも楽しい学校生活を送っていた。周りからもそう見えるようだし、私自身も特に悩みを抱えているようなことはない。  ただ、問題があるとすればそれは私の周囲だ。 「水城(みずき)ー、水城夏音いるー?」  放課後、部活までの短い時間に明日の話し合いのプリントをまとめていたら知らない先生に名を呼ばれた。うちの学年じゃない先生が何の用だ? と周りは不審な目を向けていたが、私は薄々気づいていた。 「私です。もしかして中学校からですか?」 「そうそう。職員室横の相談室に行ってって〜」 「わかりました、すぐ行きます」  きっと丁度玄関近くにいた彼が応対してくれたのだろう。申し訳なく思いながら、まあ部活には間に合うだろうと見切って教室を後にした。  中が見えぬよう窓に画用紙が貼られたクリーム色の戸を開ける。 「あ、夏音」 「……こんにちは。あの先生、今日は」  青い座面のパイプ椅子で足をぶらぶらさせてる人はとりあえず無視して、その隣に腕を組んで座っている先生に挨拶をした。彼女の担任である水色のネクタイの先生は「まあ座れ」と椅子を顎で指した。私は彼の対面に座り、ふたりと私は長机をはさんで向かい合う。  さっき入るなり私を呼び捨てしてきた人、この場でもなお態度の悪い奴。見た目は全然似ていないのだが、その彼女はふたつ下の妹なのだ。  市立と県立で管轄も違う中学校と高校だが、お互いのチャイムの音が聞こえるくらいには近くに立地している。今日もきっとこの先生は妹を引っ張り歩いて姉のいる高校へ来たのだろう。  彼らがわざわざ来た理由は言うまでもない。だからさっき自分から切り出したんだ。  私の不良妹である采雪(さゆき)が、また学校で何かやらかした。 「……まず、今日の体育の時間のことなんだがな」  こういうのは初めてじゃない。なんなら中3のとき校長室に呼び出されたあの時よりかなりましだ。あれはさすがに怖かった。まじで震えた。  色々話を聞いてみると、やらかしたとはいえ今回はあまり周囲への害はないようで少し安心だ。あの恐怖はもう二度と味わいたくない。  最後までタメ口で先生に反抗しやがる妹の頭を先生はがしっと掴み、前を向かせる。そして恒例行事的に私にこう言った。 「くれぐれも親御さんに伝えといてくれ。頼んだぞ長女」  こちらも定型文のように了承と改めての謝罪を伝える。そして、さあ、こんなやつほっといて私は早く行かなくてはいけない。  妹のほうは空っぽの鞄を背負って薄い色の唇を尖らせている。こいつは帰宅部だ。というか入ったとしても即刻退部処分食らいそうな奴だ。 「道わかるでしょ? まっすぐ家帰りなよ。待ってるだろうし」  雑な会話ゆえ抜けてたが、待ってるのは琥春(こはる)、まだ小さい末っ子だ。そこまで言わなくても采雪には伝わるだろうが、そもそも話を聞いてないこいつは「へいへい」と適当な返事を返してきたのでため息を聞かせてやった。姉の苦労を知れよ次女。  この仕事は別に好きでやってるわけじゃない。親が聞くべき子供の悪事と説教なんて好きで聞く姉はいないだろう。  あの豪快な担任が渋々私に伝達を頼む理由はただひとつ、うちの両親が頑として学校に来ないからだ。プラス電話にも出ないことは水城家姉妹の担任をしたことのある先生ならば誰でも知っている。  私の両親は学校が大嫌いだ。義務教育を批判する系の大人だ。もう義務を卒業した私が高校に通わせてもらえているのはほぼ奇跡だ。  でもそんな思想、仕事として先生やってる大人たちからしたら知ったこっちゃないだろう。素行が悪いだけの采雪は本人のせいでしかないから責めていいが、まだ小学2年生の琥春が急に熱を出したなんてときもある。時と場合によっては妹たちの命に関わるかもしれない。  ということで、私ができるだけ代わりをしているってわけだ。  実は小学生のときも何度か親代わりをやってたりする。仕方ないし別にいい。あ、でもやっぱりもう校長室だけはごめんだ。  私が物心ついたときにはもう両親はそんな感じだったし今更なのだが、こういう出来事があるとやはりうんざりする。しかし、今そんなことを考えている場合でもない。  部活だ。私、部長だ。私が来ないと部活が始まらない。  道中すれ違った事務の先生に「あ、君が噂の長女?」と声をかけられつつも急ぐ。采雪のせいで事務室陣には長女と呼ばれ始めてしまった。恐らく下の名前はまず知られていない。  こんな感じで水城家は面倒くさい。それでも、理由があって私はそれを許していて、親に反抗したことはかなり数少ない。  ある意味交換条件のように。親になにも文句言わないしフォローするから、ということで両親にとりつけた約束。たとえどんなことがあろうとも音楽を続けさせてもらう、という約束だ。  この約束はずいぶん前にした。これを破られたら私、采雪レベルじゃないくらい爆発するかもなと内心苦笑しながら、音楽への愛を再確認してちょっとだけ嬉しくなった。
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