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「……ふふっ」
「……ん?」
昼休み。鳴間と伊吹くん、そして私のいつものメンバーで机を囲みお弁当を食べていると、唐突に伊吹くんが笑い声を漏らした。
「えっ、どした?」
「夏音さん、また歌ってたよ」
「まじ?」
ごくんと口に入っていたご飯を飲み込む。食べながら手持ち無沙汰になると鼻歌を歌ってしまうこの癖、普通に行儀悪いから意識して止めてたんだけど。
「いつも思うけど変だよねーこの人。そういう天然っぽいとこたまにあるよねっ」
鳴間が伊吹くんに向かって言い、後半は私を見て上から目線で言う。彼女のお弁当は今日も彩り豊かな手作りだった。
「別にいいんじゃない? 夏音さんの音楽ラブ、というかピアノラブ? なところ僕は好きだよ」
一方伊吹くんはコンビニのおにぎりを片手にいつもの微笑みを見せる。あんな軽い鼻歌、しかも割とマイナーなのにピアノ曲だとすぐわかるあたり、伊吹くんもなかなかの音楽ラブでピアノラブだ。
「でも夏音はちょっと熱すぎだよね。他に何でもできるのにもったいない」
「確かに何でもできるね」
「でも私バタフライできない」
「なぜそこでバタフライ? やっぱ夏音ってわからん」
「大丈夫だよ、僕クロールの最高記録5メートル」
「ほら下には下がいるね」
「鳴間まじひっどい」
鳴間と伊吹くんが同時に笑う。正反対のようでそうでもないこのふたり。私を介さず関わっているのをほとんど見たことがないが、そもそも友達が少ない人達のためよくこのメンバーで一緒にされる。私自身もクラス内だとこのふたりと一番親しい。
鳴間はホームルームでの話し合い以降めちゃくちゃに不機嫌だったが、今はもうすっかり回復しているようだ。いや、繕っているだけで内心ではぐちぐちぐちぐち続けているかもしれない。采雪とはまた違う方向で問題ばかりの彼女だが、表面を誤魔化せるあたり少しは大人になっている。
それより今の私が心配なのは、お昼ご飯がツナマヨおにぎり×2の伊吹くんだ。
ちびちびとおにぎりを食べ進める伊吹くんの顔色をじっと見る。ズタズタな生活習慣のせいで血色が悪いのはいつもだが、やっぱり今日は増して死人っぽい。
「…………………………」
この高校は明後日から期末テスト期間に入る。
堕落したとはいえ進学校、勉強を推してくる。進学校とはいえ堕落真っ只中、自称すら危ういこの学校の学習環境がいいわけもない。そして我らはもう2年生。その最悪のコンボが大部分の真面目な生徒に焦りを生み出し、ピリついた空気を作っている。まあ、いつものほわほわがやがやに比べれば、という程度だが。
私自身については心配も不安も特に抱いていない。ただでさえやり過ぎ心配症女子がそばにいるのだから、自分でも心配しだしたら重すぎて心配に潰される事態になってしまう。
そして、私の希望する将来的な進路には学力以上に必要なものがあるので、テストはとりあえず程度、落第しないくらいにできていれば良いんだ。
ちょっとくらい勉強駄目になったって、私は音楽できればなんとかなるんじゃないか、っていう。
「いーやいやいやいやいや」
まあ予想はできてたけど、鳴間が信じらんないという顔で私の話を遮った。
「とりあえず程度にできてりゃいい? 音楽できればなんとかなる? まっじで何言ってんのよ万年1位!!」
「まだ2年目だよ」
「そうじゃないっ!」
鳴間のことは適当にあしらいながら、私は伊吹くんの反応を注視した。
黙って米を口に詰め込む伊吹くん。彼は何というか、敏感なのか究極の鈍感なのか。人とは違うある事情があって、周りの人達の心理が体調に直で影響してくる。
彼の半生に大きな影響を出したその事情は、鳴間だって知らない、この学校で私しか知らない秘密だ。
音楽が好きなことや、視力は良い……良い? のに分厚い眼鏡をかけていること、もしかすると食が細いことにも関係しているかもしれない。長い時間をかけて理解できるようになったが、初めは全く想像もつかなかった。
伊吹くんは、ちゃんとした世界が見えていない。
簡単に言うと、彼には幻覚が常時見えている。
「ねえ伊吹くん! いくら天才だからってほんとうざいこの人!」
「あははは……」
伊吹くんは台本にあったような苦笑いを漏らす。私には大げさに頬を膨らませた怒り顔の鳴間が見えるが、彼はそれをどう認識しているんだろう? 考えてみても、やっぱり難しい。
彼の幻覚には原因やきっかけが何もない。つまり、小さい頃からいつもずっと見えているんだ。自分に見えているものが本物じゃないこと、彼も徐々に徐々に気が付いていったらしい。
酷くなったりましになったり日々見え方は変わる。そしてそれを大きく左右するのは、そう、周囲の雰囲気や自分の精神状態だ。
「みんなギリギリまで追い詰めるけどさ、平均ならいっかーくらいでいるとたまに満点とれたりするよ」
「夏音、それはガチなの? 煽りなの?」
「まあ気楽でいなされってこと」
伊吹くんは学校全体の空気がいびつに変わるテスト期間が苦手だ。とはいえその酷さも回によって変わるわけで、現状を探るべく私はわざとテストの話題を振ったんだ。
今のところそこまで特筆すべき反応はない。が、大丈夫だろうと決めつけるのはまだ早い。公共の場で彼は体調不良を巧妙に隠すのだ。もう7年近い付き合いの私も、その振る舞いを一見したところで気づくことはまずできない。
「伊吹くん、食欲ある?」
「……あるよ」
「ならよかった」
鳴間の前だけどこれくらいは訊いても問題ない。いつもだから。
そして私は自分の弁当箱を彼の目の前に置く。中には、残しておいたウィンナーと玉子焼き(ピックが刺さってるやつ)。ツナマヨくらいじゃタンパク質が圧倒的に足りないから押し付ける。
「うわでた、夏音はおかんか」
「お弁当自分で作ってるから実質おかんかも」
「あんた何時に起きてるわけ?」
「……いつもごめんね夏音さん」
伊吹くんはずり下がる黒い太縁眼鏡を両手で上げる。存在感抜群のそれが彼の救世主だ。困ったら見えないふりができるし、よく見えなくて変なこと言っちゃった、と誤魔化すこともできる。いつもそんな感じだから、眼鏡かけても結局よく見えていないという設定はうちのクラスなら周知されている。
嘘によってフォローしてもらうことを本人は後ろめたく感じてしまうので、そこは私の出番。伊吹くんの憂いは友達の私がとばしてしまえばいい。
「いいよ。わざと多めに作ってるし」
今回も少し不調そうではあるが、割と大丈夫なほうかもしれない。この場合はいつも通りでいることが大切だ。他愛なく音楽の話でもしていれば、彼もきっとふふっと笑ってくれる。
「あ、思い出したんだけど、前言ってたコンクールの曲のさ」
「まーたピアノ! 夏音そればっかり」
「いいじゃん」
そういえば伊吹くんが音楽を好きな理由は、音は嘘をつかないかららしい。目に見えるものを信じられない彼にとって音は絶対的な存在のようだ。彼を安心させる「絶対」なもののひとつ。
伊吹くんが不安定なとき心がけているのが、笑顔でいることだ。彼は周囲の心理状態に影響されやすいが、やはりそれが身近な人であるほど影響が大きい。だから彼の前で悩んだり苦しんだりしちゃ絶対にだめ。特に私なんて、彼が折れそうなときの最後の杖なんだから。
何回か聞いたことがある。「もう無理だって思っても、夏音さんがいるなら大丈夫かもな」。
しかし前に一度、私のせいで大変なことになりかけた。あれはもう完全に私が悪い。伊吹くんには1ミリも非がない。私が彼の前であんな乱れた姿を見せたせいだ。よって彼が「無理」になった。
あのときから肝に命じている。伊吹くんの前では常に絶対的な存在でいなきゃいけない。私は彼にとって「絶対」なものリストに入ってるんだから。
彼にとっての「無理」な状態は、単なる体調の限界のことじゃない。彼は、もう無理だ、という精神が長く続いてしまうと生きることを諦めようとする。
見慣れているからなのか、何なのか、自分を物理的に傷つけることに対して伊吹くんは全く躊躇がない。だから怖いんだ。だから危ないんだ。今まで何度もそんな彼を見てきて何度も制止してきた。
クラスの子達や先生はいつも穏やかに笑う彼しか見ていないから、なぜ彼が誰とも仲良くしたがらないのかもわからない。苦しむ姿は全くもって知らずみんな好き放題言って、仕方ないとわかっていても、腹立たしい。
そんなことを考えているとは悟られないよう、私も穏やかに笑う。
「やっぱり作曲者あの人だったよ、あのこの前言ってた……」
「あ、あの話覚えててくれたんだ!」
ぱっと灯る笑顔に少しほっとした。
「練習大変だろうけど頑張ってね。……ま、夏音さんなら言われるまでもないか」
自分が極限状態の中でも人を励ますことができる優しい伊吹くんだから、助けたい。
私には彼を全力で支える以外に選択肢はない。苦しい現実といつも向き合わなければならない伊吹くんと違い、私は健康に生きているのだから。
「いや。ありがと」
「ねーピアノの話わたしわかんないんだけど!」
「はいはい」
そして、伊吹くんに対する私の役目はもうひとつある。それは他の人に彼のこの事情を知られないようにすることだ。
特に鳴間。3人で集まることが多いから、伊吹くんと関わる中で違和感を抱かせないようにしなければいけない。もっとも、彼女がそんなに周りを見ているのかどうかは別として。
彼のことを知っているのは私ひとりだけなんだから。伊吹くんをちゃんと守らないと。
そう心の中で気を張ったのは、鳴間がテストの話題を蒸し返したからだ。
「だってさあ、12教科だよ? やばすぎるって」
「ゆーても半分くらい副教科よ。副教科は実力でいける」
「そりゃ夏音ならどうにかなるけどさ」
「みんなも別に大丈夫っしょ」
「ええっ。ねえ伊吹くんどう思う? みんなノー勉でもいいって言ってるけどこの子」
「まあ……夏音さんが大丈夫って言うならね」
「なるほどそうか、委員長がそう言ったせいにすればいいか」
「私のせいにすんな。成績は自己責任です」
心配してんのか私の負担増やしたいのか、わかんないなこの人は。
実はこのあと生徒会室に行く用事があるので、懸念が残りながらも早々に食べ終えた。少食すぎる伊吹くんと好き嫌いが激しすぎる鳴間、食事がとにかくゆっくりのふたりに「ちゃっちゃと食べな」と言ってから片づける。
あらゆる仕事をしてる私もさすがに生徒会役員ではない。じゃあなぜ行くかというと、単純に学級委員長として資料貰いにいかないといけないから。
律儀な伊吹くんに「いってらっしゃい」を貰ってからすたすた歩いて向かう。生徒会室は隣の隣の棟にあるので地味に遠い。
廊下で野球をする騒がしい同級生を躱して階段にたどり着き、黄ばんだ階段を1段ずつ下っていく。踊り場をたたたっと3歩で通り過ぎる。
……どうしたものか。
あのふたり。鳴間は心配や不安をそのまま言葉にするし、伊吹くんはそれをそのまま以上に受け取ってしまう。他人に寄りそうではなく無理にでも上を向かせるスタイルな鳴間の軽々しい励ましが、心が下向きになってるときの伊吹くんには突き刺さることもある。
似てないようで似てるようで、やっぱり相性は悪い。伊吹くんについてを隠すだけでなく、そんな事情もあってこのふたりには注意が必要なんだ。でもふたりと私に関係がある以上、他に親しい人もいない鳴間と伊吹くんを遠ざけるのは難しい。どうしたら……。
そのときだ。
「…………っ!」
やばっ、と危機を感じたのと同時に、緑の手すりをばっと掴んで事なきを得る。
……びっくりした。
「かっ、夏音先輩!?」
ちょうどすぐそこにいた1年生がびっくりして声を上げた。彼女は部活の後輩だ。
「だ、大丈夫大丈夫! ごめんね!」
心配する彼女にそう繰り返すが、よほど驚いたのか「珍しいですね」と直球で言われた。確かに珍しいかも。ただ階段で転びかけただけなんだけど。
……考え事しながら動いたせいかな。生まれてこのかた体力テストはAかB判定なんだけど、あんまり自分の身体能力を過信するのも良くない。
足を踏み外してどきっとした感覚が長く残ってしまい、私はその後どこかふわついたままで生徒会用ピンクの封筒を受け取った。大判のそれを落とさないように、まあ気を付けるまでもないが持っていると、ふと、思った。
もしかしたら、少し疲れてたのかな?
自覚はなかったけど、ふわふわと不安定な頭にふとそんな言葉が湧いたんだ。感覚だけじゃなくて何となく足元もふわふわする気が、まあこれは気のせいか。
――このとき思ったことをもう少し気にかけて生活すれば、何かが変わっていたのだろうか。
「……早く戻ってあのふたり見とかなきゃ」
しかしこんな私だから、下校する頃にはもうすっかり覚えていない。
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