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 明後日からは部活停止期間に入るので、テスト前の部活は明日で終わりだ。  私はピアノがいちばん好きだが、例外なく音楽を愛している。中学高校共に吹奏楽部に入部したのも自然な流れだった。そしてどちらも部長を務めることとなったのも、周りから見れば自然だっただろう。部活や音楽に向ける熱意とそれに伴う知識、技量は他の人に負ける気がしないと謙遜なくはっきり言える私だから。  部活というものは面白い。勉強やその他も悪くないけれど、やっぱりこれこそ青春という感じがする。 「テストはテストで頑張らないといけませんが」  部活の終礼、現部長に促されて次期部長の私も少しだけ話をした。 「音楽のことを片時も忘れないでいるのが、大事だと思います」  吹奏楽のことを、って言うべきだったかもな。  私は吹奏楽のきらびやかな音色も大好きだ。それでもやっぱり、私が片時も忘れないでいるのはピアノ。どうして? なんて説明できない。好きだから好きなんだ。  好きだから好きの精神は、もしかしたら親から受け継がれているものかもしれない。  両親の話をすると引かれたので普通じゃないんだろうなというのはわかっているが、別に毒親だったりネグレクトだったりするわけではない。それこそふたりは好きだから好きなことを貫き、逆に言えば、嫌いなことは嫌いだから絶対にやらないだけ。そして、その主張が周りの大人より少し激しいだけ。娘の私から見ればただそれだけなんだ。  そんな両親だから癖の強い采雪も適当に許されている。それもあって、会話こそ少ないが彼女も親に向かって反抗することは意外とないのだ。家の外の奴をどうにかするのは親でなく姉の役目。  それから、まだ幼いほうの妹の管理も私の役目だ。  末っ子の琥春。私とは9つも歳が離れているが、もし琥春の授業参観にうちの親が行っても比較的高齢に見られるようなことは絶対にない。むしろ不自然になるのは私や采雪のほうに来た場合だと思う。上の2人が産まれたときの両親はかなり若かったのだ。  あ、ちなみに両親が授業参観に来てくれたことは生来一度もない。もしもの話だ。  両親にとって妥当な年齢の娘である琥春の管理は、采雪に比べ慎重かつ丁寧に行うようにしている。中学の先生に長女と呼ばれるほど姉妹としての印象が強い私と采雪とは違って、琥春の周りはきっと姉がふたりいる程度にしか思っていないだろう。それに、両親のわがままに対する反応がきっと私達と采雪では変わってくる。若い親御さんが変わり者なのと何の変哲もない保護者が異常なのでは、向ける目が違う。  だから私は采雪と違って、琥春はさも普通の親が世話をしているようにするため充分に管理を行き届かせている。電話連絡や、それこそ授業参観などはどうしようもないが、そこは共働きで仕事が忙しい風に仕込んでおけば大丈夫。  それが琥春のためにせめて姉ができることだ。ミルク色の犬に足首を甘噛みされながら、今日も黄緑の連絡帳に丁寧に伝言を記入する。  琥春の熱望により飼い始めた、白くて小さめのゴールデンレトリーバーのようなこのわんちゃん。正しい犬種はよく知らない。姉と歳が離れている彼女にとってはいちばん近い家族だ。子犬の存在で、少しでも彼女の寂しさがなくなっていればいい。  当の琥春は子犬を呼び、リビングではしゃぎまわりだした。私が嚙まれなくなったのはいいんだけど。 「こら琥春、足ひねってんだから走んなー」 「知ってる!」  聞く耳持たずな妹に、笑いながらため息をつく。彼女の小さい足に巻かれたテーピングについての連絡(母のふり)を書き終えて、琥春の髪を乾かすためのドライヤーを取りに立ち上がった。  一瞬、本当に一瞬だけ、ちょっとだけ、視界が歪んだような気がした。風呂上がりだったからだと思う。  ドライヤーの騒音に対抗するように可愛い声で琥春が歌っている。私とは対照的な栗色の髪をときながらオクターブ下でハモった。  髪をさらさらにしてピンクの不味そうな鼻炎の薬も飲ませ、タスクをすべてこなせばそれからは私の時間だ。勉強は、まあまだギリギリテスト期間じゃないし。  私はアップライトピアノに歩み寄る。居間の壁沿いに置かれたそれは、小さい頃の私が両親との例の約束で手に入れた。  黒く重たい蓋を開けると、整然と並ぶ白黒の鍵盤が露わになる。この瞬間が、いつでも好きだ。  私は自宅のこのピアノをとても気に入っている。艶々した全身、薄く埃っぽい匂い。鍵盤と蓋の間にはフェルトが挟まれているが、それが青色であることも好きな理由のひとつ。青は良い、すごく良い。  何よりもいちばん好きな点は芯のある音とタッチなんだが、あいにく今その本領を発揮することはできない。時刻は夜9時少し前、弱音しないと近所迷惑になってしまう。  足元に3つ並ぶくすんだ金色のペダル、その真ん中を踏み込みそのまま横にガコッとずらす。踏んだ状態のままくぼみにはめることで、ペダルを踏み続けなくとも弱音され続けるのだ。  この仕組み考えた人はちゃんと表彰されたんだろうか、なんて考えながら鍵盤を押し込むとくぐもった音がポロンと鳴った。音量をかなり抑えてくれる弱音ペダルに感謝しつつも、やっぱり音全開で弾きたいという欲求も喉の奥でくすぶる。  ピアノの周りに置かれている多くの楽譜達。最近は、横の本棚に手を伸ばす必要はない。カラフルな楽譜の背表紙を目の端に、集中すべきは譜面台に置かれたただひとつの曲だ。  コンクールの課題曲。ピアノを始めて10年を越えた私の集大成となる曲だ。  開けた蓋の裏側に映る白い指は、これまでの経験量を物語るように節張っている。  ピアノは幼少期からずっと続けているけれど、実はコンクールに出場したのは小学生が最後だ。それからは部活もあり忙しくなったので参加していなかったが、今年は()()()()があるから絶対に出なければいけない。  そして絶対、絶対見事な演奏を響かせなければいけないんだ。  集中して練習を続ける横で、水城家の愛犬は私の足を食べようとしたりせずにじっと座ってもわもわする音を聴いてくれていた。しばらくして練習を終えてからそれに気づいた私は、桃色の首輪の周りを撫でまわす。忠実なところがあざといな、と思いながらにやっと彼に笑いかけて、ごろごろしていた末っ子にそろそろ寝るよう促した。采雪に言ってもどうせ寝ないから、次女には歯磨きしなさいとだけ言う。  真っ白なわんこはとてとてと琥春の後を追いかけていく。不器用な歩きかたに今日もまた少し笑ってしまった。  重たい鍵盤の蓋をしっかり掴んで慎重に下ろす。雑に閉めるとバンッと痛そうな音がするそれは見た目より危険で、琥春には開け閉め禁止を命じている。  幼い頃私がやらかして、指が青あざだらけになったこともあったな。色のくすんだピアノ椅子に腰かけたまま、あのときの痛みを思い出して苦笑いした。  漆黒の蓋に優しく手を当てたまま、次はもう明日の学校について考えていた。  まさかこれを最後にピアノを触れられなくなるなんて、そんなこと考えていたわけがなかった。
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