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 今日も今日とて雨が降っていた。起きた瞬間から雨音を感じ、天気関係なく上機嫌な琥春は虹色の長靴を履き、梅雨にキレてもしょうがないのに空へ舌打ちする采雪はひよこ色のたまごパンを貪って、私はいつも通り黒髪をひとつにまとめる。  どれだけ反抗的でも、なぜか朝ご飯だけは必ず食べるのがうちの次女。 「琥春、まだ時間じゃないから出ちゃだめよー」 「えーっ」  異常な早起きがうちの三女。これは末っ子あるあるかもしれない。 「雨だし、足気をつけるんだよ?」 「はぁい」  小学2年生が足くじいても車出してくれないのがうちの親。  そんな家族と暮らす私は、しっかり者で頼れる長女。で、いたかった。  これから誰よりも家族に迷惑をかけること、まだ想像もしていない。  琥春と同じタイミングで家を出た私は、傘を差して濡れたアスファルトを歩いていた。登校班の6年生に妹のことをお願いして、それからはひとりで高校に向かう。  とても近いわけじゃないが遠くもないので、水城姉妹の上ふたりは徒歩登校だ。鳴間は自転車許可の距離にわずかに足りず嘆いていた気がする。伊吹くんは自転車乗れない。  つまりいつもの3人はみんな歩いてくるのだが、私が登校する時間は早いので、道でどちらかと合流したことは一度もなかった。  だから、いやそれだけが理由じゃないけど、びっくりした。 「うわっ!?」 「あ、おはよう」  あまりらしくない声を上げた理由は、角を曲がってすぐ人が、伊吹くんが、いたから。それもただいたんじゃない。 「えっ、伊吹くん、傘は?」 「あー……」  何でもない、と言われた。伊吹くんが何かを誤魔化すときの特徴だ。この何でもない、は。  結構な雨にさらされてずぶ濡れの彼をひとまず私の傘に入れる。すると彼はさっと1歩下がるもんだからまた雨が降り注いだ。 「逃げんな」 「だって」  レンズに沢山水滴がついているけど前見えているのかな。見えてたとして彼にとって意味がないのだがそんなことを考えながら、私は肩に掛けたスポーツバックに手を突っ込んでいた。 「はい」  いつも持っている水玉の折りたたみ傘を手渡す、というか押し付ける。こうでもしないと伊吹くんは受け取らないのだ。 「ありがとう……」  今私が持っている通常のものより少し薄いブルーの傘。それを彼がちゃんと使ってくれたことに満足して、ふたり並んで歩き始める。 「タオルとか持ってきてる?」 「え、や、持ってない。……あっ、いいよ別に」 「私の勝ち。着いたら貸すから拭いてから着替えな。ジャージはあるでしょ? 体育あるし」 「なにに勝った……? いや、あの、ほんとに大丈夫だから」 「馬鹿、風邪ひくぞ少年」 「しょう……? 着替えは、するけど、あとは大丈夫だから」  ハテナマークはつけてくれるけどのってくれない。彼に今余裕がないことを再確認して、脳をフル回転させる。  何かあったのだろうか。昨日、おととい、その前、もしかして今日何か憂うようなことが待ち受けているのかな。テストは明後日からだし。んー。  昨日は、昼休みは顔色が優れなかったが、帰る頃にはいつもより少し悪い程度に回復していた気がする。それは、クラスの雰囲気がとがり始めてからの伊吹くんの普通と何も変わりなかった。  連日の疲労が一気に来たりでもしたのかもしれない。ここ最近はつらかっただろうし。  今の伊吹くんにはこの道がどんな風に見えているんだろう? といつもみたいに想像する。  健康な私には、空に居座る灰色の雲としずくを落とす家の垣根と、ブロック塀に沿って跳ねる茶色いカエルが見えている。左を向けば、青い傘を持ち視線を地面に落とす私の友達。 「無理だってなる前に言うんだよ、いい?」 「うん…………多分」 「多分じゃない。絶対言え」 「…………………………」  これはちょっと、本当に細心の注意が必要かもしれない。伊吹くんの珍しい無反応に私の不安が煽られる。  言葉少なに会話をしていると、やがて学校に到着する。県立平山高等学校、と書かれてる銅のプレートに薄茶のかたつむりが引っついていて、珍しくて門を通りながらじっと見てしまった。  梅雨の生き物はなんだか可愛げがあって好き、と言おうと思ったがやめた。可愛いかどうかなんて、伊吹くんは困るだろうし。  生徒数の割に狭い敷地には棟が3つ。そのうちふたつは4階建てで、私達2年生の行くべき教室はその中のいちばん北側だ。  早めの登校なので昇降口がごった返しているようなこともなく、傘を悠々とたたむことができた。特にこんな雨の日は、ピークの時間帯だともう危険なレベルでここは混む。  うちの高校に人が集まり過ぎて、近隣の普通科高校の例えば瀬南(せなん)大瀬南(おおせみなみ)高校なんかは生徒が少ないんじゃないか――なんて、授業で習った過密化過疎化をなんとなく連想しながら、話すこともないのでふたりで黙って階段を上る。うちのクラスは3階だ。  既に来ていた数人に軽く挨拶して、逃げるように教室から出ようとする伊吹くんの頭めがけてタオルを放り投げる。命中してからふふんと胸を張ると、黒板に黄チョークで連絡を書いていた背の高い男子に「仲良いなっ」と笑われた。  彼は声にいじる気持ちを含ませていたように感じたが的外れだ。私と伊吹くんは恋愛事には一切絡んでいない関係で、もっと言えば、誰かを好きになるということがよくわからない、と本人が言っていた。  彼は恐らく、それどころじゃない日々を送っている。  朝礼の時刻になるまでにずいぶん雨脚が強まり、学校に着いた時間が遅かった子ほど濡れていた。本来紺色であるスカートの先が雨で黒くなってる女子や、靴下がやられて裸足になっている男子の中で、鞄も制服もちっとも濡れていない鳴間は多分親に送ってもらったんだろう。交通量のとても多い道路に面している上この生徒数だと迷惑になるから、車での送迎は絶対に禁止なのだが。  そんなことを言えば、校則は生徒のためになんとか濡れたら生徒の体調がなんとか正論もどきをぶつけてくるので、咎めることはしないけど。  教室の窓を開けて手を少し出し、雨が降り込まないか確認する。幸い風はないので大丈夫そうだ。半分ほど窓を滑らせて大きく息を吸う。  雨の匂いは嫌いじゃない。夏が来る前触れの匂いがする。映画の本編が始まる直前に劇場がいっそう暗くなったときのような高揚感があるから、梅雨もそんなに嫌いじゃない。これが過ぎれば眩しい夏だもの。  夏の光に思いを馳せる私の後ろで、伊吹くんはジャージ姿なことを鳴間につっこまれていた。それを見て、かすかな違和感を覚える。ふたりが私を介さず話しているのも変だ。でもそれだけじゃない。  いつでも何でも上手く隠す伊吹くんが、素の感情を表に出していた。少しだけ滲んだ墨汁のような、嫌悪。  ……しまった。 「絶対家出るとき雨降ってたでしょ!」 「まあ、まず傘なくしちゃってて」 「えーっ、まじ? だめだよー」  ただ相性が悪いだけじゃない。  伊吹くんは鳴間のこと、苦手なんだ。 「ねえ、かのーん。伊吹くんのおっちょこちょいどうにかしてやって」 「いいじゃないか彼の個性だ」 「人に迷惑かけちゃったら個性じゃないでしょー」  お前が、言うか。色々通り越して呆れる。  自分の感情の動きなんてどうでもいいので、ひとまずは伊吹くんを逃がす。 「あのね伊吹くん、めちゃくちゃ申し訳ないんだけどさ……」  私の頼みに快く了承してくれた彼が教室の外に出たのを見届けてから、幼馴染へ視線を戻す。  めんどくさいところがある彼女だが、私が長いこと仲良くしているのは、慣れたのと嫌いなほどに面倒なわけでもないからだ。衝突することがあっても、普通に友達だと思っている。好きな友達として見ている。  でも他の人からしたら、言動が矛盾しまくるのに指摘したらもっと面倒になる女子というのは、できれば一緒にいたくない存在なのかもしれない。人のため世のため色々正しそうなことを説くが結局自分を正当化しているだけの子なんて、仲良くする物好きがいなければひとりぼっちになるのかもしれない。 「鳴間さ」 「何?」 「伊吹くんなんか最近体調良くないみたいだからさ、ぼーっとしてたりしてたら話しかけないでほっといてあげなよ」  過敏になっている伊吹くんへ、これが最善だと思った。実は前こっそりと、鳴間さんの声が困るんだと、消え入りそうに言われたことがあったのも関係している。  声が苦手な理由は、なんとなくわかってしまった。 「はぁー?」  甲高く薄いのに全く声が通らないから。  耳に障る音なのに聞き取りづらいというのは、彼にとってとても困る。 「なにそれ夏音ちょっと酷くない?」  彼女がなぜ私を非難してくるのかは、10年の付き合いでもわからなかった。 「体調悪いならさ、話しかけにいくべきでしょ。ひとりにして余計苦しませないように」  鳴間は自分が正しいと信じて、自分が合っていると確信して、疑わない。  そんなところが私と似ていたから、仲良くなった。 「ほっとくのは可哀そうだよ。てか、元気じゃないって知っててさっきあれ頼んだの?」 「あー……」  鳴間の動作から声が聞こえるような気がした、やれやれ、って。 「ほんと夏音はそういうとこね。戻ってきたら謝りなよ。ほっとかないで」  私は、やっぱりちょっと。……。  気のせいだろうと雨音に流し、乾いた声で小さく笑った。 「はは。そ、っか。ごめん」  珍しかった。  どこか、彼女に神経が逆撫でられている私がいた。  戻ってきた伊吹くんには、謝罪ではなく感謝と無理するなという何度もしてきた忠告を伝えた。  彼の気分が優れないと知った鳴間は、より多く彼に構い、事あるごとに彼を気にかけているように見えた。  ……珍しかった。  面倒だな悩ましいなと思うことはあっても、怒りを感じることはほぼない私が、さらに珍しい気持ちに支配されつつあった。あまりに久しぶりだったから、なんだか視界が狭まったような奇妙な感覚がした。  とても、珍しい。  私は、イライラしていた。  そんな朝の一幕も、授業を受けているうちに忘れていくかと思われた。でもそうでもない。苛立ちは予想外に長く私の視界を蝕んでいた。  実際、名指しで先生に当てられたのに反応が遅れたのは初めてだった。次は水城。水城、おい水城? と3回呼ばれてようやく気がついた。  今さら鳴間に気を取られているわけにはいかないのだ。私は色んな立場の者としてたくさんの連絡や作業をこなさなくてはいけない。もうすぐテストも続く。それから伊吹くんも心配だ。私のせいで環境を悪化させてしまったんじゃないだろうか。  いくつものことを同時進行するのは得意技だったはずだ。でも今日は何か、感情が思考回路の邪魔をする瞬間があって、それが細かなミスに繋がることもあった。  昼休みだった。激しかった雨も少しは落ち着き、雨粒は規則正しく校舎を叩いている。 「ねーねー委員長ってさ」  このクラスにはなぜか、私を委員長と呼ぶ人がひとりだけいる。少し変わり者だが小学校から一緒で親しみやすい彼女に絡まれながら、私は教卓で作業をしていた。ホッチキスでプリントをまとめながら聞き返す。 「何?」 「好きぴとかいないわけ」 「好きな人ってこと? いないよ」  カチカチと書類を留めながら淡々と答えた。相手の顔は見なかったけど、恐らく暇そうな顔をしていただろう。雨で何にもできなくて退屈なんだろうな。 「えーつまんな」 「いても面白くないでしょ」 「面白いよぉ、鉄の女委員長のデレてるとことか見たい」 「どんな趣味してんのよ」  ていうか、鉄の女ってなんだ。 「今いないなら初恋の話とか聞きたい」 「初恋はしてる認定なんだね、私」  実際、恋をした覚えはなかった。 「え、してないん」 「うん」 「うそお!」 「声大きい」  この子は誰にでもこんな調子だから、彼女と話すのはいつも気が楽だ。この心のノイズがなければ、少しくらい冗談を言って話を膨らませて遊んだかもしれない。 「委員長ご機嫌斜め?」 「そんなことないよ?」  この人にはいつも本当にどきりとさせられる。  すると、にやにやしてた彼女はいきなり真顔になって、いきなり話し始めた。急な話題転換はこの子の通常運転だからいいんだけどさ。 「昨日あの子に会った。委員長が卒業式で喧嘩してたあの子、名前忘れたわ」 「…………………………」  黙った私とその子の間に、ホッチキスの音が2回響く。 「よく会えたね。あの人究極のインドアなのに」 「ブロック塀に座って何かぶつぶつ言っててまじ怖かったからすぐ逃げた。あの子って優等生な感じしてたけど実際サイコパスだったりする?」 「知らない」  嘘だ。サイコパスじゃなく天才故になんだということを知っていた。 「ピアノやりすぎておかしくなったんかな?」 「かもね」 「委員長も詰め込み過ぎんなよ」 「私は大丈夫だよ」 「元気ないなぁ。あ、余計な事言っちゃった感じ? あの子とめっさ仲悪かったよな」  余計と言うほどでもないけど、正直あんまり思い出したくはなかったかな。  そう思ったけど言いはしなかった。  卒業式で大喧嘩して絶交したあの子。いや、小学校在学中も言わば常に冷戦状態ではあったんだ。でもまあ、卒業式でちょっと。  思い出してしまう。コンクールでいつも真っ赤なドレスを着ていたその彼女。あのひと目で特別だと周囲に知らしめるような真紅。あの子と言われてまず頭に浮かぶのはその赤だ。そして次に、冷たく嗤う声。指先から溢れ出す濃く美しい音。  ピアノコンクールで毎年のように最上位の成績を収める彼女。小学校の同級生で中学以降どこに行ったのかなんて知らないが、きっと音楽専攻のどこかだろう。  変わり者のクラスメイトが思い出せなかった名は、浅宮(あさみや)紅麗(くれい)。  あの音まで真っ赤で美しい少女を思い返していると、いつの間にか唇を噛んでいた。  ふと、私を呼ぶ声がした。 「夏音先輩、夏音せんぱーい」  教室の入り口に立つのは吹奏楽部1年リーダーの後輩。 「……あっ!」 「部長が待ってますよー、行きましょう!」  うわ、しまった! そういえばミーティングあるんだった。なのにまさか私、え、忘れてた? 「委員長どした? 次は部活?」 「ごめんごめん! 行くわ!」  そして掃除時間になり教室へ戻ってきた際、整理中の書類を出しっぱなしだったを変わり者の子から聞いて思い出す。「委員長がうっかりしてるぅ可愛ぃ」とかうるさくしながらも、彼女が片づけてくれたようだ。ひとこと多いけど、でも申し訳ない。  こんなうっかりするなんて、私はもしかして。 「夏音!」 「ん?」 「これわからん! 教えてくだせぇ」 「あー、いいよ」  清掃が終わって、休み時間。そのとき鳴間が解いていたのは化学の問題だった。 「……になるよね。てことはどうなる?」 「んんー?」  彼女はそこそこに頭が良い。でも難しいところはたまに私にヘルプをしてくる。  そして大抵、 「あー私が天才ならわかるんだろうけどなぁ」  途中で飽きる。 「私でもわかるんだから天才じゃなくてもできるよ。ほら」 「夏音は天才でしょ」 「違う。だからここはね」 「えー、それは凡人に失礼だよ夏音。1位常連のくせに」 「この学校だけの話じゃん。もっと他にすごい人はたくさんいる」  そう。天才とは、私なんかのことじゃない。  例えばあんな、纏う空気すら特別感を感じる真紅の少女のことを言うのだ。  そんなことを思いながらも、どこか自身は特別な人間だと思っている私がいることも、知ってる。わかってる。そういうところが似ている鳴間だから、波長が合ったことも。  鳴間を適当にあしらっていると、前の席の伊吹くんがくしゅんとくしゃみをした。 「大丈夫?」 「うん。ごめん」 「もー、ちゃんと傘差してこないからだよー! 風邪ひいちゃっても知らないよっ」 「ん-……」 「さあ鳴間さんはお勉強をしましょうね」 「なに、夏音急に丁寧に。えーもうこれわかんないからぁ」 「テスト出たらどーすんの。範囲入ってたよ」 「今日わかってもどうせ覚えてないしー」  だとしても、やれ。これはそんなに難易度高くないぞ。  懇々と説明している私からは、伊吹くんの表情までは見えていなかった。  白い復習プリント上に、赤ペンの文字がのろのろ走る。  丸くて読みづらいその赤色に、口を噤んだ。  はっきりと、私が赤に乱されていた。 「もういい!」 「え」 「だって絶対無理だよ」 「決めつけちゃったらできなくなるよ」 「なにそれ、先生みたいに」 「……夏音先生の言うことなんだから聞くべきじゃない?」  おどけたように口をはさんだのは、座ったまま振り返っている伊吹くんだった。いつもだったら、笑ってのって夏音先生と呼んできそうな鳴間だが、今日は、違った。 「はぁ? 伊吹くんまで」 「お願いしたならわかるまで教えてもらったら?」 「でももうこれ以上は夏音的にも負担かなって」 「夏音先生教えるの好きそうだけど」 「……はいはい。とりあえずさ」  伊吹くんが鳴間に向かって話し続けるのに驚いて、少し動揺していた。 「……君は人に言う前に自分がするべきだよ」 「え? 何の」 「伊吹くんだって化学あんまり得意じゃないじゃん」 「いや勉強の話じゃなくて」  ふたりが、ピンと来ないことを話していた。  なんのことだろう。人に言う前に。勉強の話じゃない。心当たりはないな。  不思議がひっかかりながらも、鳴間の変化はくっきりと目に見えて理解していた。もう、終わらせよう。 「ふたりともタイムアウト~。1分前着席をしましょう」 「座ってないの夏音じゃん」 「だね。ってことで終わりっ。次は英語でーす」  じゃね、と同じ教室内だが軽く手を振って、ふたりとは離れた自分の席に着席した。ふたりよりも前の席だから、その後彼らがなにか会話していたのかは見えないので知らない。  英語の教師が使った赤い指し棒に、ほんの数秒だけ思考が止まった。  本日の授業を全て終え、精神が忙しなかった今日ももう少しで終わろうとしている。でも、すんなりとは終わらせてくれないようだ。  鳴間がまた、頭が痛い気分が悪いと騒ぎ始めた。 「保健室行けば?」 「んー、でもなぁ」  鳴間は、身体が弱い。運動が大好きなわりにあまり健康ではない。 「ずっと雨降ってるとさ、常に何か音鳴ってるじゃん? それがだめなのかもな」 「へぇ」  多分普通に低気圧の影響だろうなと思いつつも発言はしない。鳴間は自分の人とは違う部分を言いたがる子だから。  もしかしたら、今回もそれで、思いついたことを言いたくて仮病をしているのかもしれない。  そんなことを思ってしまい、すぐに脳内で取り消す。いや、さすがにそれは酷いだろ私。体調が悪いのは本当だろうし、気遣ってあげないといけないだろ。  自分を責めていると、本当の本当に体調の悪い伊吹くんがまたくしゃみをして鼻をすすっていた。彼に鳴間が絡みにいく。  そんな親友の様子を見て、私は、酷いことに、あまり良い気持ちがしなかった。  彼女は、数秒前まで自分が弱っていて助けを求めていたのに、お姉さん顔で伊吹くんを叱って励ますような行動をしたからだ。  自分が苦しくても人に優しくできる、そう言えば良いことのように聞こえる。というか本来良いことなんだろう。しかし何でか、私はとっさにそう思えなくて、何でだろうか、多分、そのとき感じたありのままの気持ちが、外側に出てしまっていた。  伊吹くんがそれに気づくのと、私がほろりと本音を漏らすのと、どちらが早かったかはわからない。 「元気なら早く帰る準備しろよ」  鳴間には、聞こえていなかった。それくらいの声量だったのと、鳴間の耳は特別良いわけでも敏感なわけでもないのが原因で。  でも、耳が良い人が、特別に敏感な人が、いる。  鳴間から視線を外した伊吹くんの表情を、私はしっかりと両目で映してしまった。  彼は、無言で、この上ない、縋るような顔をしていた。  はっとした。  彼の前で、少しでも、乱れてはいけない。頭の中で警報が鳴り響く。  無意識に口角を上げて彼にほほえみ、彼の表情が少し緩んだのを見て胸をなで下ろす。  こんなことをしてしまうなんて。私もしかして。  ……いや。  首を軽く振って、邪念を振り払う。  ちゃんと、しなきゃいけない。彼は私を頼って生きている。私は絶対でいなくちゃいけない。  そう、だから、今日みたいな私じゃだめなんだ。  感情に影響を受けて視野を狭めたり、自分が引き受けた役割でミスをしたり、気持ちのままに駄目ことを言ったりしちゃ、いけない。  伊吹くんのため以外でもだ。鳴間のことだって気をつけなきゃいけないし、そういえば今日采雪は大丈夫だっただろうか。琥春の足は悪化していないかな。そうだ、そうだ、私がしっかりしなきゃ。  家では長女として、学校では委員長で、次期部長で、ふたりの友達で。ピアノだって、自分や誰かを落胆させるような真似はできない。だって大好きなんだから。どんな天才が相手だろうと手を抜く理由にはできない。伴奏も、コンクールも、成功させるのだ。  そうすることで安心できる人がいる。私が絶対でいることで。  それは、下校時に起こる。
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