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 雨は弱まり、しかし黒雲は相変わらず空を塗りつぶしていた。  今日までは部活なり駄弁るなりで学校に残ることが許される。明日からはテスト期間となるので、教室で勉強する人以外は一斉下校だ。  テストを理由にさぼったのだろう運動部の友達に手を振って、私はちゃんと部活に行く。行こうと、した。  リュックを背負おうとしたところでロッカーの忘れ物を思い出し、やっぱり今日こんなの多いなだめだなと思いながら教室後方へ歩く。オレンジの紙ファイルを取り出して、私はそれを見つけた。  え。  ロッカーの中には、伊吹くんに朝貸したはずの、淡い青の折りたたみ傘があった。拾い上げて、首をかしげる。明日返してくれればいいから帰りも使え、ときちんと伝えて了承を貰ったはずなのに。  もしかして、帰りは学校の傘を借りるつもりなのかな。いや、彼はきっとそこまではしない。ましてや伊吹くんが、借りたものを何も言わず放置して返すだろうか。あの律儀な伊吹くんが。  ざわっと、嫌なものが背中を這い上がるのを感じた。  考えすぎだろうか。……いや。  私は荷物一式机に置き去りにして、身ひとつで教室をとび出した。  部活は、大丈夫ちゃんと考えてる。  とにかく転ばない程度の速足でタタタタと階段を下り、案の定途中で会った部の同級生に遅れるかもと伝言を頼み、自分の傘を掴んで靴を履いた。  下校する生徒に交じって中庭を進む。雨はそこまで強くない。でも傘を差さずに歩く人は誰ひとりいない。ぶつからないように気をつけながら、砂利を踏んで校門へ向かう。  靴箱に彼の靴はもう無かった。鳴間はやっぱり頭が痛いから部活休むと言っていたので、靴は見ていないけどもう帰っただろう。  途中で会った他クラスの友達に訊くが、伊吹くんのことは見かけてないようだ。鳴間さんなら見たよ、と赤い花柄の傘を差す彼女は親切に教えてくれた。赤。  幅が広い正門を通り抜けて見回しても、彼の姿はない。部活終わりの下校時ほどごった返してはいないが、雨とみんなの差す傘のせいでよく見えない。視界の不思議な狭さも、元通りにはなっていない。  そんなに濡れないだろうと思い、さっと水色の傘を閉じた。下校する生徒達の間をすり抜けるようにして進む。焦って、ほぼ走っていた。  背中から首筋にかけてざわざわした何かが居座っていて、伊吹くんの顔を見ないと、そいつらはいなくなってくれないような気がした。  学校の正面は幹線道路に面している。多くの自動車やトラックが行き交っていて、さらに今日は雨なのもあり、車の通る音でほぼなにも聞こえない。喋りながら帰る人達が何度も大声で聞き返している。  そう、聞こえないのは、伊吹くんには命取りだ。  息が切れながら、車道ギリギリを走り抜ける。遠くからパトカーのサイレン音やバイクの騒音もとんでくる。そんな色んな音が雨にかき混ぜられて何がどこで鳴っているのかさっぱりだ。近いような遠いような、わからなくて気持ち悪い。  これは、危ない。  特に今の伊吹くんには。 「いっ…………!」  車通りの多い、大通り。  その真ん中近くに、彼はいた。 「ちょ、ちょっと、何してるの! 伊吹くんっ!」  大声を上げるが、彼は振り向かない。代わりに近くにいた他学年の子が不思議そうに私を見た。でもすぐに彼女も目をそらし、すぐそこの歩道橋に向かって歩きだす。  淡い緑色の歩道橋。この道路は危険だから、横断歩道はそもそも無い。  それなのに、彼はよく見えないから。 「伊吹くん! 危ない!」  いや、彼だけじゃない。 「伊吹くんっ!」  この状況じゃ、どれだけ声を出しても届かないと、考えればすぐわかったはずなのに。 「もうっ……!」  こんな危ないことしちゃいけないと、考えればわかったはずなのに。 「伊吹くん!!」  考えるまでも、ない。  友達だけじゃなく、自分に迫る危険。  私は閉じていた傘をも投げ出して、思うままに駆け出した。 「…………!!」  幸い、車の波が一瞬途絶えたときだった。でも別にそのことには気づいていなかった。  そんなことよりもっと単純な、頭を使うまでもない、見ればわかる。私なら見ればわかる。  だから、よく見えていないのは伊吹くんだけじゃない。  周囲からの危ないっという甲高い声、私には届いていなかった。私の声が伊吹くんに届かないのと同じように。  私だってそうだったんだ。  私も見えていなかった。  周りも、自分も、見えていない。  見えていないんだ。  至近距離でも私に気づかない彼。  冷静でいれば、もっとどうにかなったのだろうか。  いつもだったら、こんなことになる前に防げたのだろうか。  そのどれもができなかった情けない私は、もしかしたら。 「………………っ」  疲れていたのかもしれない。  目前の友達の肩に、手を伸ばす。  車の来ない中心へ突きとばそうとした判断だけはできてよかった。  でも、間近に迫る耳を爆破するようなふかし音と頭上から降ってきた悲鳴以外は、何も覚えていない。
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