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<5>
幸い、バイクにはねられた私が身体を打ったのは中央分離帯の花壇の上で、命に関わることにはならなかった。
真っ白な病室に閉じ込められてかれこれ1週間。身体中が痛いがこれでもだいぶ回復し、この足の状態がなければそろそろ退院させてもらえていたのかもしれない。足自体は包帯で固められてるとかじゃなく普通に見えるけれど、思うように動かせないんだ。背骨か腰か何かが傷ついたみたいなことを言っていたけど忘れた。
そのせいで、今は車椅子がないとちょっとの移動もできないんだ。
うっすら雨音がする病室の中、私はひとりぼっちだった。右側はカーテンが開いていて、空っぽのベッドが静かにじっとしている。奥には窓があるはずの左側は、誰もいないのに最後まで白いカーテンが閉じられている。
これまた真っ白の病床の上で寝返りを打つ。下ろすと割と長い黒髪が顔にまとわりついて、気だるく払った。
あー、どうしよう。
どうしようかな。
「……っ!」
ふと、この病室に迫る足音を感じた。
気持ちの悪い震えが身体の底からぞわりと這い上がる。私は反射的に布団を頭まで被り、耳を圧迫した。
引き戸の開く静かなはずの摩擦音。続いてふたり分の、靴とスリッパの足音。
どうしよう。
どうしよう。
だってこんなのって、
「……あれ」
おかしいでしょ!
「水城さん? 大丈夫?」
「………………ああ、えっと」
ベッドの向こう、この共同病室内の通路から看護師さんがこちらを見ていた。
布団をそっと下げ、しかし耳から手は離さず、声を絞り出して答える。
「だい、じょうぶです」
「そう。あ、ごめんね止まって」
「いえ……」
身体を起こしてよく見ると、彼が介助しているのは私と同い年くらいの背の高い青年だった。目立った怪我はないが背中を丸めていて、伸びた前髪のせいで顔はよく見えない。
淡い空色の看護師さんに支えられその青年が消えていったのは左側の白。ああ、患者が来るから今日はカーテンが閉まってたのねと納得はしたが、それは私にとって非常にまずいことだ。
だって、私――。
「すみません」
音が、声が。
「ちょっといいですか?」
「……よくないです」
「……よくないんですか」
看護師さんはいつのまにか戻っていて、病室には私と隣の患者さんのふたりだけ。
どちらも黙ると、部屋には濁った雨の音しかしない。その一粒一粒も、順調に私に刺さっていた。
「…………いやいや、あの、でも、ちょっと聞きたいことがあって」
布が擦れる音、ぱたんと床に何か当たる音。続いて分厚いカーテンの端が揺らぐと、私は息を呑んだ。
「ちょっ、やめっ……」
ポールをリング達が滑る高い音。
わかってるんだよ。音なんて、危なくも怖くもなんともないんだって。
それなのに。
……どうしたら、いいんだろう。
雨とはいえ外の光は眩しい。細い視界の中で淡い逆光に包まれる灰色の服の彼は、私を見て大きく目を見開いた。
そして罪悪感と焦りでいっぱいの顔になる。
「ごっ……ご、ごめん……!」
「…………いや……」
乱れた髪に涙の滲む目、耳を強く圧迫する両手。
今の私は、彼を後悔させるのには充分な見た目だっただろう。
ひとつふたつ、ゆっくりと呼吸をする。そうして落ち着くと、隣の患者をじっと観察する。
どこか憂いを帯びた雰囲気の青年だ。焦げ茶の髪はどこにでもいる学生と同じような型で、きっと平高みたいに校則が古い学校に通っているのだろう。中性的な顔つきで痩せているけれど上背があるからか、男の人だ、と身構えてしまう。
「……ごめんね、勝手に開けて。えっと、すぐ閉めるから」
「え、えっと、待って!」
再びカーテンに手を掛けた彼を慌てて静止する。あの音はまずい、もう聞きたくないので開けたままでいい。
ベッドの上で体勢を変え、隣の患者さんのほうを向く。恐怖で両手が耳に行くのは止められないが、見ず知らずの彼にどう思われても別にいいだろうと割り切った。
「そのままでいいから、ね?」
「いいの? なら、開けとくけど……」
今になって気づいたが、自然と敬語が消えていた。私は隣の患者さんに乗せられただけだが、彼はきっと見た目で私を年下だと判断したのだろう。私は一般的に大人びて見えるようだから、珍しいことだ。
隣の患者さんの目線はずっと私の顔、いや、耳に押し付けられた手にある。やっぱり不審に思われているんだな。
「あの」
彼が自分の病床にゆっくりと腰掛ける。そして訊いた。
「君、名前は?」
「……名前?」
緊張しきったその姿を不思議に思いながらも、素直に答える。
「水にお城の城、夏の音」
「え?」
「それで水城夏音」
「……あ、ああ、そゆこと。字から入ったのか」
素直ではないか。
耳を塞いでいても、遮断しきれない音と口の動きで大体の意思疎通はできるものだ。問題があるとすれば、私の声が小さいせいで隣の患者さんが聞きづらそうなことだが。
できれば早く会話を終えたかったが、仕切りのカーテンが開け放たれている以上、無言も気まずい。私のせいだし仕方ないか、と覚悟を決めて出したくない声を出した。
「ねぇ、隣の患者さんの名前は?」
「隣の……あ、僕は」
彼はちょっと躊躇いながら続ける。
「えーっ、と、かいと、です。ゆげ、かいと」
ゆげかいと? 字があんまり想像できない。
「弓を削るに、橋とかの架ける、いとへんの方の絃」
「へぇ」
感心しながら、頭の中にそれらの字を浮かべる。隣の患者さんは、弓削架絃さん。
「……なんか、バイオリンみたいな名前だね。弓とか糸とか」
「……………………」
彼は反応に困ったように黙っていた。糸はともかく弓とバイオリンとの関係がよくわからなかったのかもしれない。弦をこすり音を鳴らすあの長い棒みたいなのを弓と呼ぶのだが。
「……弓道みたいとはたまに言われるけど」
「あ、ほんとだ。弓道」
架絃さんがちょっとだけ笑う。甘い低さの独特なハスキーボイスが相まって、とことん不思議な人に思えた。
良い声なのかもしれないが、それでも私はできるだけ聞きたくない。すべてを拒絶するように耳を押さえていると、「どこか、悪いの?」と遠慮がちに訊かれた。
病院にいるのだからどっか悪いのは当たり前だろうが、そんなことあっちもわかっているんだろう。
「……足とか、やっちゃって」
「何かスポーツ?」
「ううん、交通事故」
「そっ……か」
耳について言及しなかったの、不審に思われたよな。彼の表情を見ようとそっと顔を上げる。
ここで彼と初めて目が合った。
彼はひどく綺麗な深い茶色の瞳を持っていた。でも、人の目を見て話せない私は、そっと視線を外す。
架絃さんは、何か大事な感情を擦りガラスに通した顔をしていた。
「まあ、」
彼が自分の掛け布団を手繰り寄せる。寒いのかと思ったけれど、彼はそれを被らずぎゅっと口元に押し当てた。
「……いっか」
ぼそっと漏れた呟きの音の鋭さが、布団を通して遥かに弱まる。
はっとして彼を見た。長い睫毛を持つ目は軽く閉じられていた。
言うことを聞かない両手が耳を圧迫する力が、少しだけ緩んだのを感じた。
「……ねえ」
「うん?」
深い瞳が、ふわりと開く。
耳から手は離せない。それでも。
「架絃さんは、どうしてここに?」
それでも、架絃さんと話してみたくなってしまった。
「……いや、僕は…………」
彼の事情は、教えてもらえなかった。
その後も私達は、不規則な雨のリズムに合わせてだらだらと会話をした。その中で彼は私と同い年の高校2年生だとわかる。内心年上かもと思っていたけど、タメ口セーフ。
そして、私が通うマンモス校・平高の隣町にある大瀬南高、通称瀬南の生徒だと知った。平高と似た普通科校だ。あと彼は帰宅部らしい。他に何か習い事等しているのかを訊くと、「さあどうでしょう」と返された。ちなみに私は部長をしていると言い、何部? と訊かれて「さあ何でしょう」と返した。
瀬南の制服を思い浮かべる。前に合同練習をしたときに見た、緑色をしたチェックのスカートが印象的だ。するとそんなタイミングで平高の制服ってどんなのだっけ」と訊かれて驚く。
それからちょっとだけ無言になった後、恋人の有無を訊かれて、私は思わず噴き出した。何の意図があったのか探ったけど、本当に何の目的も無さそうだった。あるとすれば、手持ち無沙汰隠し。
いや、初対面の女子に訊くことそれか? 驚かせないでほしい。
窓の外で、雨は強まりも弱まりもせず、梅雨らしく律儀に雫を落としていく。
そんな外を眺めながら頬杖をついた拍子に、学校にいるときとは違い下ろした黒髪がさらっと前へ垂れた。肩下までのびた長い髪を私は気に入っている。見ると彼の髪は茶色がかっていて、私とは対照的だ。琥春ともまた違う、茶色。
気づくとしばらくの間、私達の中にまた静寂が落ちていた。彼と違って、それを破る気も飛ばす気もない私はそのまま黙って窓を見ている。
いつのまにか、会話の声量に慣れ始めていた。まあ耳を塞ぐのは止められないけれど、久々に人とまともに喋ったのが良かったのかもしれない。さっきまでの私はすべてを拒否していたから。
そうぼんやりと思っていた、こんな穏やかな白い部屋。
ここで、唐突に事件が起きた。
バンッ!!
引き戸が勢いよく開け放たれた音で、私は咳き込み、彼は顔を上げる。
どくんどくんと心臓が気持ち悪く激しく脈打っていた。目の前がぐにゃりと歪む。息が苦しくて、懸命に深呼吸で落ち着こうとした。
何事か確認すると落ち着けることを最近発見したので、耳から手は離さずにゆっくりと振り返る。
病室特有の広い入口に、女の子が赤い顔で仁王立ちしていた。さっき頭の中で見た、緑のスカート。
――瀬南生……架絃さんの知り合い?
何も言わない彼女から架絃さんへ視線を流す。そして、内心さらにぎょっとした。先程とは打って変わって、彼は焦りで顔をこわばらせている。
白い額に冷や汗が浮かんでいるのを見て、一度は落ち着いたのにまた薄い焦りが湧いてきた。
誰も何も発することは無く、張り詰めた異常な空気の中を私は黙って過ごす。彼女の視界に私は入っていなさそうだし、ふたりのどちらかがきっと行動を起こすだろう。私がするべきなのは、誰にも迷惑をかけないよう音に警戒することだけだ。
ずっと入り口で直立して固まっていた女の子が、ついに中へと1歩踏み込む。そのまま、すたすたと進み、架絃さんの元へと歩み寄った。やはり私のことは見えてなさそうだ。
顔色の悪い彼が、控えめにひとこと放った。
「……何しに来たの」
「……何しにって」
彼の言葉が、爆発寸前の彼女に障ったようだった。
「ふざけてるの!?」
私どころではなく、ここが病院であることが見えていないような大声。これはもうまずいと思い、私は躊躇わず布団を頭まで被った。
息が乱れる。苦しい。怖い。怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い。
何が怖いの? と一度聞かれたことがある。
馬鹿か。
全部だ!
音のすべて。鼓膜を震わす波のすべて。どうして今まで平気だったのかがまったくわからない。少しでも尖った音、大きいとも言えないほどの音でも充分な凶器だ。簡単に汗が止まらなくなり、涙が滲み、息は詰まる。手は震える。
何でだ。
どうしてだ。
音が怖いなんて、声が怖いなんて。どうかしてる。頭おかしい!
「……あんたが悪いんでしょっ!?」
それでも大声は降り注ぐ。
「いい加減にしろ……おい西町!」
暗い布団の中で悶え、耳は握り潰してしまうせいで千切れそうなくらいに痛い。
ああ、ああ、ああ。
再び、バンッ、と戸が乱暴に閉められる音が響く。
「…………………………」
「…………………………」
必死になって布団を口に押し当てた。吸っちゃだめだ。吸いすぎて気持ち悪くなるんだ。吐こう吐こうと意識して、段々と自分を落ち着ける。
数分振りに静寂が戻り、私はのそりと布団から這い出る。髪もぐしゃぐしゃで顔は暑さで上気していたが気にする余裕もなく、そんなみっともない姿のまま架絃さんのほうを見た。
彼は暗い顔で目を伏せていた。
先程の会話の内容は覚えてるわけもないので、彼らに何があったのかは全くわからない。
架絃さんに激昂していたおそらく同級生の西町さん。流行りの前髪を決め、痩せていて可愛らしい子だった。
「……何、痴話喧嘩……?」
怖さを忘れたくて変なことを言う。彼なら恋絡みの争いがひとつやふたつありそうだから適当ではあるが。
「……………………」
「……って」
しかし、今は彼のほうが異常事態だったみたいだ。
かすかな音に目を上げると、彼は胸の下あたりをぎゅっと押さえて、苦しそうに身体を曲げていた。
「……架絃さん」
人の苦しむ姿を見て、ああ私は、どうしてだろう。
一瞬で数多のスイッチが切り替わるように思考が澄み渡り、恐ろしいほど冷静になった。
そして気がついた。これは、身体が痛んでるわけではなさそうだ。
「架絃さん。どうしたの、痛いの?」
ただ今の私はここから動けない無能だから、使えるのは声だけ。少し声を張ると背中がぞっとするのがわかったが、自分のこと考えてる場合じゃない。
問いかけても、彼から返事は無い。推論が確信に変わる。
大丈夫。するべきことはわかっている。
「架絃さん」
迷ったり焦ったりした声を出してはいけない。疑問もだめ。確信だけが満ちた真っ直ぐな声は、こんなときに人を救う。経験上それが正しい。
「大丈夫」
「大丈夫だよ」
何が、どうして、は全て省く。こういう時大事なのは、言葉の意味じゃなくて、音なんだ。知ってる。知ってたのに。
しだいに彼の力が緩んでいくのを眺めながら、私は音を立てないようにため息をついた。
……まただ。
やがて彼の胸から手が離れ、彼がそっと顔を上げた時には、私は勝手に淡い笑みを作っていた。
彼はずいぶんぐったりしたように見えた。
彼の中で何が起こっていたのか、これもまた詳しくはわからない。恐らく何か、トラウマの類いだろう。
見慣れたその苦しむ姿が友達によく似ていた。
きっととても怖いことが、あったんだ。
……でもその全ても、私は知らなくていい。
いつの間にかベッドに倒れ込んでいる彼に気づいて、さすがに閉めなきゃと思い頑張ってカーテンに手を伸ばしたが届かなかった。だから仕方なくそのままにして、私は彼から注意を外した。金属音を聞かなくていいことに少しほっとしていた。
虚しい入院生活に入ってきた謎めいた彼のことを、私はいつか知る。
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