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 翌日、同じ病室にいるのだからもちろん架絃さんとは顔を合わせることになる。  昨日のあれを私に見られてしまってあっちは気まずいかもしれない、とも思ったが、そんな素振りは特になかった。多分、何事もなかったかのようにふるまって、私にあれを忘れてほしいんだろうなとも思った。  私だって、常に耳を塞ぐという奇行を黙殺してもらっている。だから私も彼に合わせ、何もなかったような態度を貫いた。  そういえば、今日も彼が病院に閉じ込められている理由を知ることは叶わなかった。深く踏み込む気もないし、これ以上は触れないことを決めた。  耳を塞げばだいぶ、人の会話くらいなら耐えられるようになった、気がする。  暇な私達は真っ白な部屋で、他愛もない話をして過ごしていた。  そんな無色な一日も終え、時は夜。  私は怖いものなんて何もないやつだと思われることが多々あった。そんな人が知ると仰天するが、私は昔からいわゆる暗所恐怖症というやつで、実は暗闇が弱点だ。だから夜は苦手。できるだけ早く、意識を手放してしまいたい。  でも夜っていうのは、そうさせてはくれない。夜は昼間じゃ満足しきれない人々の遊ぶ時間帯なんだ。  それに今の私が受け入れられないのは、暗闇だけじゃない。  もっと怖く、恐ろしく、軽く命が奪えそうだと錯覚してしまうもの。それは声や雑多な音より、予測不能で増減する点では最悪の敵だ。  病院の壁越しに響いてきた、エンジンをふかす耳障りな音。  横向きになって片耳を枕で塞ぐ。上を向いた方は手で塞いだが、うるさいバイクの音はその隙間からなだれ込んでくる。  うるさい。  本当に、これは……。  ぎゅっと瞼に力を込めて耐える。  それでも、鳴り止まない騒音は、まるですぐそばで鳴っているような臨場感で私を攻撃した。  もう……。  あの日の光景が次々と目に浮かんでは、お腹の底が苦しくなっていく。  あの日私は。  勝手に早送りで回りだした記憶も、やはり頭上の歩道橋からとんできた悲鳴を最後に途絶えている。  ただバイクのうるさい音だけ今でも耳にこびりついて。  ――痛い、痛い。  反対向きに寝返りをうち、コントロールの効かない耳に爪を立てる。事故後の短い期間だけで耳はあかぎれまみれ、ぼろぼろだ。  ああ、気味悪くうるさい、黒光りするようなこの音ども。  うるさい!  やめて。  もう。 「もう許して……」  ついに声として漏れた感情。自覚が無いまま溢れ出る。 「うるさいっ……」 「やめてっ……もう……」 「嫌……」 「痛い……」  この何より恐ろしい騒音に暴れ出す気持ちが、不自由な身体を痛めつける。  痛みでもう一度身をよじった途端、ベッドが消え一瞬の恐怖と重力が私を襲った。  冷たい床に落ちたこと、手をついて半身を起き上がらせた時にやっと理解する。  これはまずい。ひとりでは戻れない。  薄闇の中、今まで簡単に登れていたはずのベッドが無慈悲にそびえ立ち、異常に大きく見えた。挑戦する気力も失くしてしまう。  そしてまた、不安を煽る騒音が響き渡る。 「嫌っ……」  暗い、暗い、見えない、うるさい、音、痛い……。 「ああっ!」  金切り声を上げて耳を強く掴み、床に倒れこむ。痛い、痛い、痛い、耳が痛い。でも手を離したら……すべてに潰される。  痛い。  息ができない! 「…………っ……」  慌てて息を吸おうとする。そうだ息を吸わないと。あれ違う、吸っちゃだめなんだっけ。あれ、あれ?  いやいやいや、吸わなきゃ。こんなに苦しいのに、息止めたら死んじゃう!  吸わないと、吸って、酸素が入れば楽になるはず。  あれ、あれ、あれ?  なんで、なんで?  苦しい。  息吸ってるのに。なんで。痛い。  手が震える。頭が痛い。  やばい、どうしよう、息が。  どうして。  ……ああ。  音が、音がうるさいせいだ。  音が怖いせいだ。  手の甲にぼとぼとと水滴が落ちる。呼吸が上手くいかないせいで視界が歪み始め、顔から倒れそうになって床にがくんと右腕をついた。  だめだ。  ……それなら。  言うことを聞かない足を引きずって何かないか探す。視界の全方位から真っ黒が侵食してきている。  そうだ、それなら。  いっそのこと、音を、絶てば――。 「……!」  病床の下で、キラリと何かが光を反射している。  シャープペンだ。  その怜悧な先端が、すべて救ってくれるように見えた。  手を伸ばせばそれは簡単に私の手に入る。げほげほと咳き込んでそれでも息は苦しくて、吐きそうになりながらペンを片手で握り込んだ。  音を、絶てばいい。  音を感じるこの耳を、殺せば。  必死に床を押して身を起こす。喉が壊れた笛のような音を出していた。  ペンを耳の横に構えて、一度距離を取る。  ――そのとき。 「夏音さんっ!?」  朦朧とする意識の中で、私はカーテンが激しく引かれる音と、隣の患者さんの声を聞いた。 「何をっ、――!!!!」 「……っ!!」  瞬間、揉み合いになった。  瞬時に状況に気づいて屈み、ペンを奪おうとする彼と、反射でそれを躱そうとする私。勢いで鉄のベッドフレームに思い切り頭を打ち付け視界がブラックアウトする。  心臓が早鐘どころではない。自分のうめき声が遠くに聞こえる中、手首に生々しい強い圧力を感じた。  ペンを持つ私の腕を床に押さえつけられ、引っ張られるように上身も傾き床へどさりと倒れる。 「え、うわっ……!!」  ぐらり、と架絃さんがバランスを崩す。  急に、熱が接近した。 「………………………………」  彼の片手は私がペンを持つ手をぎゅっと掴み、床に押し付けている。  彼の空いている方の手は、私の顔のすぐ横に。 「………………………………」  手からペンが離れ、カシャンと音を立てて床に落ちる。  真っ黒だった視界にぼんやりとだけ光が戻ってくる。私は、上に覆い被さる架絃さんの顔を見た。  暗い病室でかすかに見えたその表情は、ひどく――。 「……っぶない」  彼は慌てると、すぐに上体を起こして私から離れる。力いっぱい掴まれていた右手首は、開放されると血が通う感触がした。  胸部が苦しいというより痛かった。それでも息はちゃんとできない。  架絃さんはあのシャーペンを拾い上げると、じっと確認するように見ていた。 「……よかった、未遂か…………」  ……。  未遂?  ……私、何しようとしてたんだっけ。  内からも外からも痛い頭は働かず、すべてがぐしゃぐしゃで気持ち悪かった。  それでもその答えは、すぐに思い知らされる。  今までに輪をかけて大きいバイクの音が響いてきた。 「……っ!? ぅわああっ!!」 「なっ――!!」  その騒音は躊躇なしに私の耳を圧した。  やっぱりだめだ。  音は、殺戮兵器だ。  どうしてなんだろう。私を跳ねた、いや、私が飛び出した先にいたバイクが凄い音を出していたからか?  でもどうして。バイクがいちばん怖いのは確かだけど。  私は、すべてが。 「夏音さん! 大丈夫、大丈夫だから!」  その声も何もかも、音のすべてが怖いだなんて。 「……何だこの血」  私の身体を起こそうと頭に触れた架絃さんが慄く。もう上手く動けない私は抵抗もできず、髪をかき上げられてその血塗れの外耳を見られてしまった。  でもそれに慌てられるような余裕は、もう私にはない。 「ああもう、くそっ……!」  彼が悪態をついたそのとき、上半身が床から勢いよく抱き上げられる。  そして次の瞬間、あの死の代名詞のような騒音がふわりと遠くなった。  視界は真っ暗。 「………………………………」  真っ暗、だけど。  同時に優しいあたたかさを感じて、少なくとも暗闇のほうは怖くなかった。 「……大丈夫」  少ししてから理解した。  両耳を守る私よりずっと大きな手と、このあたたかさの正体。  鼓動がふたつ聞こえる理由も。 「怖くない、怖くない。大丈夫だから落ち着いて」  甘くて柔らかい声だった。耳からではなく、触れている身体から直に伝わっているような気がした。  就寝前、暗い寝室で小さい子に絵本を読むような静かでなだらかな声。ああ、私も読んでもらったことあるのかな。いくら考えても妹に読み聞かせる自分の姿しか浮かばない。 「……怖くないよ」  その声は、刺さることも私の血を出すこともなかった。  優しかった。  水の入った袋をナイフですっと裂いたように、いつの間にか涙がたくさん流れていた。  しばらくそうしていれば、騒音は今度こそどこかに消えていった。 「……動けそう?」 「……あ、もしかして……立てないの?」  優しい声がぐわんぐわんと揺れている。問いにかろうじて首だけで肯定した。  何かこれは、おかしい――。  ………………………………………………。  はっ、と気がつくと。  世界は朝で、私はいつもどおり病床に横たわっていた。 「………………やってしまった」  肘などの数多な青あざが、昨夜のあれは現実だと確かに訴えていた。
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