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頭を冷やそうと、ふらりと外へ出た。
屋敷を出てまっすぐ坂を下り、突き当たりにある川沿いをのんびりと歩く。
どこへ行こう。
考えるが、頭の中は空っぽだった。
行きたいところも、会いたいひとも、あたしにはもういない。
虚しくなって、笑みをこぼしたそのとき。
「あれぇ、お姉さんひとり?」
振り返ると、見知らぬ男がふたり立っていた。
煤かなにかで汚れたようなシャツに、ボロボロの革ベスト。ズボンもあちこち穴が開いているし、うしろでひとつに引っつめられた長髪もボサボサだった。
治安のいい人間の風貌ではない。
ごくりと息を呑む。
「俺らとちょっと遊ばない?」
無視を決め込み、早足でその横を通り過ぎようとすると、肩を掴まれた。
「ちょっと、なに……」
「素直に着いてくれば手荒なことはしないのに、馬鹿な女だ」
「なっ……」
「ローズ・ディスワードだな。大人しくしろ」
布切れを顔に当てられた。布には薬品がついているらしく、つんと鋭い香りがした。
「!!?」
頭に鋭利ななにかが刺さったような痛みを覚える。もがく猶予もなく、あたしは意識を手放した。
***
ふと目を覚ますと、暗闇が広がっていた。
「なに、ここ」
じぶんの声がどこか遠くに感じ、身体を動かそうとすると、身体の自由を奪われていることに気付く。
どうやら目隠しもされているらしい。
目隠しの隙間から、身体を折って足首を確認する。
感触からして麻紐のようなもので固く縛られているらしい。力を入れてもビクともしない。
寒々しい室内の空気とじぶんの置かれた状況に、すぐに理解する。
誘拐だ。
冷静にため息をつく。
昔から未遂は何度もあった。大財閥の令嬢だし、両親の事故のせいで世間に顔も知られていたから。
こんなことでパニックになったりはしない。
もう、あの頃のような子供じゃないのだから。
……両親が死んだあと、あたしは口がきけなくなった。
喋ろうとしても、吐息しか出なくなった。
おじい様が心配して、あたしをいろんな医者に診せたけれど、結局治らなかった。
けれど、その病はある日突然治った。
中学で親友ができたのだ。
彼女のおかげで、あたしは声だけでなく笑顔も取り戻した。
その後あたしは、再び身の危険にさらされるようになった。
そのため、あたしを身を心配したおじい様がボディガードを付けた。
最初は、若くて屈強な男だった。
しかし、彼らはたちまち令嬢のあたしに恋をした。
職務を放棄して、あたしを連れ去ろうとしたボディガードもいる。
それだからあたしは、だれにも好かれないように性悪の令嬢を演じるようになった。
わがまま放題の令嬢を演じたら、周囲の人間はあっさりあたしから離れていった。それでも親友だけはあたしを分かっていてくれたし、変わらずそばにいてくれたから寂しくはなかった。
けれど、その親友が死んだ。
いじめが原因だった。しかもそのいじめの原因は、ほかでもないあたしだった。
あたしは、再び孤独になった。
ひとりきりの部屋で身体をくの字に折り、押し寄せる孤独に耐える。
「……べつに、怖くない」
怖くない、怖くない。
小さな声で何度も呟く。言い聞かせるように、じぶんの脳を洗脳するように。
がちゃん、と扉が開く音がした。びくりと身体が跳ねる。
「あ、お嬢様、もしかして起きてる?」
「ちょうどいいな。始めるぞ」
「はいよー」
ひとを誘拐しておきながら、ずいぶん平然とした声だった。
「おい、お嬢様」
足音が近づいてくる。
「今からディスワード会長のところへ行く。居場所を教えろ」
「……会って、どうするの」
「脅すに決まってんだろ。そのために少し、お嬢様のきれいな髪をもらったんだからな」
髪の毛を切ったということだろう。最悪だ。
「安心しな。毛先をちょっと切っただけだからさ」
「溺愛する孫娘のためなら、簡単に金を出しそうだ」
……どうだろう。
たしかに、おじい様はあたしを溺愛している。
でもそれは、あたしがお母様に似ていたからだ。おじい様は、あたしに娘である母を重ねているだけ。
その証拠に、おじい様はあたしを『ローズ』と呼んでくれたことはない。
あたし単品に、価値はないのだ。
「……居場所を言ったら、あたしを殺してくれる?」
息を呑む音がした。
「……おまえ、なに言ってるんだ?」
「死にたいの。あなたたちの望みは金なんでしょ。なら、居場所を教える代わりにあたしを殺して――」
そのときだった。窓の外から、忙しない声が聞こえてきた。
耳をすませると、喧騒の中「カジ」という単語が拾えた。
「カジって……もしかして、火事!?」
「なんだと!?」
男たちが慌て出す。窓を開ける音と共に、喧騒が飛び込んできた。
「燃えてる!」
「逃げろ!」
騒ぎはどんどん大きくなっているようだ。
「うわ、くっさ!」
「まずいな……煙が入ってきた」
「どうする? このままだと……」
「こうなったら逃げるしかない」
「で、でもこいつは?」
視線がこちらへ向いた気がした。
どきり、と心臓が弾む。
「……置いてくしかない」
「でも、このまま置いてったら」
「縄なんて解いてる暇はねぇ。とにかく急いで出るぞ。急げ!」
「あ、ちょっと待ってくれよ!」
バタン、と扉が閉まる音がする。
バタバタと忙しない足音が消えると、微かに焦げた匂いがしてきた。
男たちは結局誘拐の成果なしのまま、あたしを置き去りにして扉から出ていったようだった。
ご苦労なことだ。
取り残されたあたしは、ぽつりと呟く。
「……結局、死ぬのか」
どうせなら目隠しくらい取ってくれたって良かったのに。
「……まぁいいや」
これで、両親の元へ行ける。親友に会える。
「……みんな、あたしのこと覚えてるかな」
両親は七歳までのあたししか知らない。大人になったあたしを見て、じぶんたちの娘だと気付くだろうか。今さらだけど、両親はあたしを愛していたのだろうか。
親友もだ。あたしと一緒にいなければ、あの子は死なずに済んだ。
……恨んでいるのではないだろうか。
あたしの死を悼むひとは、この世に何人いるだろう。
これまで関わってきたクラスメイトにもボディガードにも、さんざん酷い言葉を投げ付けた。
当然の報いだ。あたしに相応しい死に様だ。
助けには来ないだろう。
屋敷を出ることも誘拐の事実すら知らないのだから。
ひとつだけ、心残りがあるとすれば……。
脳裏を掠めるのは、おじさんの顔。
「アルトには申し訳ないことをしたな……」
直接言えないから、小さく呟く。
「ごめんね、アルト。ひどいことたくさん言って、ごめん」
死が迫っているというのに、心は驚くほど凪いでいた。
「こんなときまで、死んだ心は戻らないんだな……」
すぅっと大きく空気を吸い込み、目を瞑った。
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